コース01  羽黒盆地-桜川の源流と里山の原風景を訪ねて ~ここが古東京湾の最奥部? 

                (初回公開:2023.12.10,最終更新日2024.2.13) 

 

コースあらすじ

  茨城県と栃木県の県境にある標高519.6メートルの高峯山(たかみねさん)へ登る途中に平沢高峯展望台(標高300メートル)があります。そこから南を眺めると、眼下に羽黒盆地や岩瀬盆地がまるで箱庭のように見下ろせます(写真)。盆地の中央には桜川の桜並木が見え、その向こうには磯部桜川公園の丘があります。

 ふと、こんな風景はいつかどこかで見たことがある気がしてきました。そうです、竜ケ崎市駅と牛久駅の間でJR常磐線の車窓からみえる景色や、つくばから成田空港へ向かう途中で車からみた、田んぼに浮かぶような丘の景色です。まるで松島や瀬戸内海の海に浮かぶ島々を見ているようだと感じたことを思い出しました。

 ということは、もしかしてここも、はるか昔には海があったのでしょうか? 磯部という地名は海と関係しているのでしょうか?

   

 このコースでは「つくばりんりんロード」最北端の岩瀬駅から出発し、岩瀬・羽黒盆地にひろがる台地や低地の地形と、桜川の最上流域を確かめながら走ります。里山や古い街並みを通りながら、人々がこのような地形をどのように利用して暮らしてきたのか、遺跡や神社・寺院などからその歴史を探ります。こんな山奥まで海があった証拠はほんとうにあるのでしょうか。さあ、それを探しにいきましょう。

 なお、このコースは距離的には少し長めで、起伏も結構ありますので、自分の体力や時間に合わせて、適宜コースを省略して巡ることをお勧めします。

コースデータ

  • 起点:JR水戸線岩瀬駅(旧筑波鉄道終点)駅前

   駅前に 桜川市観光協会のレンタサイクル拠点(高砂旅館)があります。

  • 終点:起点にもどります
  • 走行距離:約17km(鏡ヶ池オプションコースを除く)、高度差:約60m 
  • 所要時間:約5時間(走行時間は約3時間  )

コースマップと高低差

                        <地理院地図より作成>

 <起点からの距離と高低差>

<コースの詳細マップ>

   <Google Map>を使って現在地やコース周辺の地図をを詳しく見ることができます。近隣の観光地やレストランなどの情報もわかります。

<地形や標高などの詳細マップ>

    <地理院地図>を任意に拡大して地形の特徴を詳しく見ることができます。右下のマークを押すと現在地に移動します。中心位置(+)の標高が左下に表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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レンタサイクルの利用について

 起点の岩瀬駅前にある高砂旅館で桜川市観光協会が運営するレンタサイクルを誰でも簡単な手続きで1日600円(ヘルメット付)で借りることができます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

岩瀬駅前レンタサイクル1台600円 | 桜川市観光協会公式ホームページ

 

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おもな見どころ

1. 起点<JR水戸線・岩瀬駅>

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 起点はJR水戸線・岩瀬駅の駅前広場です。つくばから岩瀬駅までは、筑波山口発の路線バス「やまざくら号」を利用すれば約1時間で到着します。自家用車なら、つくばセンターからおよそ1時間かかります。

  <開業130年を迎えた岩瀬駅と岩瀬市街の歴史>  岩瀬駅は明治22年(1889年)に水戸線(当時は水戸鉄道、水戸ー小山間)の開通とともに開業し、大正7年(1918年)には筑波鉄道(岩瀬ー土浦間)が開通してさらに交通の要所として発展してきました。

 駅前広場から富谷山(とみやさん)方面へ広い駅前通りが延びています。レンタサイクル事務所のある高砂旅館の高松さんの話では、岩瀬の町並みはもともとは駅北側の旧国道50号(水戸街道)や結城街道沿いにあったそうで、映画館や銀行など多くの商店が並んでいたそうです。現在の駅前広場は最近になって整理され、新しい国道50号沿いに大形スーパーや電器店・飲食店ができたためか、この辺りは何か寂しくなったような気がします。       

                   

                               

 走行前の自転車点検を済ませたら、さぁ出発です。自動車や交通安全に十分気を付けて走りましょう。                

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2. 「青柳の糸桜」と熊野神社

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<結城街道をへて青柳地区へ> 駅前広場から北へ100メートルほど進み、最初の十字路を右折すると結城街道に入ります。この辺りがかつてのにぎやかな商店街だったようですが、今は閉じたお店が多いように見えます。山王神社を左手にしばらく走ると旧国道50号(水戸街道)と合流しますが、またすぐにわかれて水戸線の踏切を渡り青柳地区に入ります。「今昔マップ」[1] で明治時代の地図を見ると、昔の桜川は現在より蛇行して線路ちかくを流れていて、結城街道(水戸街道)は線路の南側、つまりこの道を通っていたことが分かります。

 <謡曲「桜川」に謡われた「青柳の糸桜」> 踏切を渡ってさらに進むと右側に鳥居がみえ、最初の見どころの熊野神社に到着します。石灯篭のわきに大きな枝垂桜の古木がありますが、これが、かの能楽者世阿弥の謡曲「桜川」にでてくる「青柳の糸桜」です。春の満開時にぜひ訪れてみたいところです。樹齢500年と言われていますが、実際は磯部公園から何度か移植されたもののようです[2]。           

  <山麓のへりに祀られた熊野神社> 花こう岩で造られた一の鳥居をくぐり参道の階段を登ると小さな平坦地となり、木製の二の鳥居と、その先に拝殿と本殿があります。記録によれば平安時代の保元(ほうげん)2年(1157年)に創建された古い神社ということです[3]。     

                

 熊野神社は標高70-80メートルの小さな平坦地にあります。地形分類図 によればこのような地形は丘陵(Hp) あるいは頂部が平坦な丘陵 (Hs) に区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」、あるいはそれに相当する台地と呼ぶことにします。          

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3. 台地上に築かれた花園古墳群

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 <南北に細長く延びる舌状の高位段丘> 熊野神社と青柳の集落をあとにして、道端の二十三夜塔(にじゅうさんやとう)などを眺めながらのんびりと進むと、田んぼの向こうに上城(かみしろ)地区の小高い高台が見えてきます。

 この高台は標高が60-80メートルほどで水田とは高低差が10数メートルあり、南の山地の先端から1キロメートルほど舌状にのびる、頂面がほぼ平坦な台地状の地形です。地形分類図 を見ると、前の熊野神社とほぼ同じ高さの高位段丘に分類されています。

<市指定・花園古墳群二号墳> 高台の上には住宅や工場、畑が広がっていますが、東側の縁に市指定の花園古墳群の一つ、花園古墳群二号墳があります。

      

 古墳は竹やぶの中にあるので季節によっては見分けがつかないかもしれませんが説明看板が立っていますので場所はすぐ分かります。民家の庭先を通っていきますので挨拶をして通り抜けましょう。

                

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4. ハクチョウの飛来地、桝簑ヶ池(ますみがいけ)

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 舌状にのびた台地の間には水田が広がり、しばしばその上流部に溜池があります。友部地区にある桝簑ケ池(ますみがいけ)もそのような溜池の一つで、ここには12月頃になるとハクチョウが飛来することで知られています。もっとも、最近の温暖化のせいか、あるいはもっと餌が豊富なほかの池に移動したのか、最近はめったに見かけないという情報もあります。

 南の加波山が水面に逆さに映る景色は見事です。池の奥に公園がありますので、また改めてゆっくりと水際の植物やハクチョウなどを観察してみることにして、今回はそのまま通り抜けましょう。                         

  

[追記:先日、厳冬の朝早く出かけてみました。ハクチョウはいませんでしたがたくさんのカモが群がっていました。地元の方に伺ったところ、今冬は昨年の11月末頃に飛来してきましたが、その後しばらくしてどこかへ飛んで行ってしまった。年によっては3月頃まで、とどまっていることもある、とのことでした。2024年2月10日]

 

寄り道】

<台地先端の蕎麦畑> 今回のルートから少し外れるのですが、この舌状台地の北の先端に小さな神社がある高台があります。9月の末に行ったとき、神社の周りには蕎麦の花が満開で、遠くに富谷山や雨巻山が望める絶景がありました。台地は水はけがよいのでこのように蕎麦などの栽培に利用されています。畑の標高は約65mですから高位段丘の先端ということになります。        

       

 桝簑ヶ池を通り抜けて櫛の歯状に並ぶもうひとつの台地にあがると、大きな古い民家や道端に石碑がならぶ古くからある集落がつづきます。ふだんは人影も少ない静かな集落ですが、ときおり元気な高校生たちとすれ違いました。台地の中央にある日大付属岩瀬高校の生徒らしいですが、若者とすれ違うだけで、なにかほっとする活気を感じました。広い台地にはこのように学校が建てられることが多いようです。

                              

     

                                             

 台地の先まで進むとJR水戸線に出会ました。踏切を渡り線路に沿ってすすむと、左手に古い神社が見えてきました。 

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5. 東山香取神社とイワキリ様

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 神社の境内は標高が63メートルほどありますので、どうやら、これまで走ってきた高台はここまで続くようです。地形分類図 で見るとやはり高位段丘の先端であることが分かります。神社の説明では、水戸線の開業に際して社殿が少し北側へ移動したと記されていました。

 神社は総鎮守東山香取神社といい、神社の略記によると創立は神亀(じんき)元年(724年、奈良時代)で、その後、永禄(えいろく)2年(1559年、室町時代)に再建されたということですからそうとう古い神社のようです。神社の右隣には通称イワキリ様と称する祖霊社が並んでおり、この地域の石材採掘に携わる人たちの信仰を集めていたそうです。

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6. JR水戸線羽黒駅

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 線路に沿って東に進みJR水戸線の羽黒駅に立ち寄りましょう。駅の開業は明治37年(1904年)ということで、岩瀬駅より15年ほど後に建設されたことになります。今は無人駅ですが、駅前広場におしゃれな石標が立っているモダンな駅です。トイレもありますので休憩してさらに先へ進みます。

 羽黒駅は標高が約60メートルほどの台地上にあり、古くからの街並みもこのあたりにあったようですが、そこから駅前通りを北へ進むと少し低くなり、北関東の主要幹線である国道50号に出ます。あたらしい国道50号は旧市街地を避けて筑輪川に沿う田んぼの中(標高が53~54メートル)を直線的に走っています。

  

 なおまだ時間は早いかもしれませんが、もしこのあたりで昼食をとりたいときは、駅前、あるいは国道50号線沿いのレストラン、または50号線との交差点にあるコンビニを利用すると良いでしょう。これから進む先にはそのような店が見つかりませんのでご注意ください。

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7. 西小塙(にしこはなわ)市街地は更新世の台地上にある

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<旧国道50号に沿った昔からの街並み> 国道50号の北を流れる筑塙川から150メートルほど進むと旧国道50号(結城街道)との交差点があります。街道沿いには古くからある西小塙(にしこはなわ)の市街が並んでいます。この市街地は周囲の水田と比べるとわずかに1~2メートルほど高く、標高はおよそ55メートルです。車で通ればほとんど気が付かないと思いますが、自転車だとその差がよく分かります。

               

 今昔マップ[1]を見ると、かつてはこの街道沿いが羽黒の中心で村役場や郵便局があったことが分かります。現在は静かな通りですが、郵便局や神社がその面影を残しています。街道は緩やかにカーブをしていますが、もともとの自然の地形を反映しているのかもしれません。寄り道をして市街地を少し走ってみるのも面白いと思います。

<市街地の土台は自然堤防?それとも更新世の台地?> 交差点を通り過ぎて新しい農道との十字路にある広場から後ろを振り返ると、先ほどの西小塙の市街地が水田よりわずかに高いことがはっきり分かります。市街地にあった畑の土壌はローム  からできていましたので、この微高地は自然堤防ではなく更新世の台地であることが分かります。地形分類図  を見ると、台地は今から13~12万年前の海成の地層を土台にしできた上位段丘 (Ut) あることが示されています。

 海成の段丘ということは、この時代には海がこの地域を覆っていた、つまり今から13~12万年前には「古東京湾」という海が羽黒盆地の中心にまで広がっていたことになります。そういえば、かつて岩瀬の長方(おさがた)というところでたまたま国道50号の拡幅工事をしていて、こことほぼ同じ標高の台地に大露頭があらわれていたことがありました。そこでは海抜45メートル付近にきれいな海浜の砂層がありましたので、同じような海岸が羽黒盆地までひろがっていたのだろうと思われます。詳しくは本文末の【ジオコラム】を参照ください。

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8. 曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ) 

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 太古の海を想像しながらさらに北へ走ります。正面にまた高台が現れ、曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ)の山門が見えてきました。

 月山寺は、桓武天皇の代の延暦14年(西暦795年、平安時代初期)に法相宗の徳一大師により中群橋本(羽黒盆地の南にある現在の上城城跡あたり?)に創建されました。永享2年(1430年、室町時代)、光栄上人の代になって天台宗に改宗、以後天台宗の学問所として隆盛を極めたと伝えられています。関ヶ原の合戦以後、徳川幕府の厚い庇護を受け、当地に移転してからは関東における天台宗の中心として学問所を設けるなど大きな役割を果たしてきたそうです。数ある当山の末寺としては、この近隣でも富谷の小山寺や池亀の五大力堂、坂本の観音寺があるそうです

 当寺は秋の紅葉がたいへん美しいことで有名です。また境内奥には立派な美術館(平成元年設立)があり、国指定重要文化財の弁慶の網代笈(あじろおい)をはじめ数多くの文化財や美術品が展示されていて、学問所である月山寺の趣が今でも漂ってきます。普段は扉が閉まっていますが、入口のインターホンを鳴らすと1人でも快く開館していただけます(入館料300円)(月山寺パンフレットより)

      

<盆地中央の高位段丘群> 月山寺の本堂は標高が60メートル 弱の高台に建っていますが、東側にある鐘楼や千手室、ひろい墓地は標高が約6667メートル の平坦な台地の上にあります。境内は造成されているのでしょうが、もともとは周辺に並ぶ台地を含め、盆地の中央に広がる高さおよそ70メートル の広い台地だったと思われます。

 地形分類図では、これらの台地は頂部が平坦な丘陵 (Hs) として区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」と呼んできました。解説書によれば、高位段丘は今からおよそ15万年~50万年前に海の底にたまった地層を土台としてできたとされています。太古の昔、やはりこの盆地には海が広がっていたのでしょうか。

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9. 小野池(小ノ池、このいけ)

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 月山寺をあとに段丘の南縁に沿って東に進むと、西小塙方面からくる直線道路(小ノ池線)に出会います。さっき通った西小塙の方を振り返ると、上位段丘上の町並みや、さらにその東方に続く一段高い台地が見えます。地形分類図 にも示されているように、標高約70メートル あるこの台地は高位段丘です。

 小ノ池線を左折し台地に上がってみましょう。大きな小野池(小ノ池、小野調整池ともいう)が見えてきました。もともと台地の中の谷に堰を作ってできた人口の溜池ですが、現在は霞ケ浦用水系統につながっていて、霞ケ浦からポンプアップした水をためています[7]。この調整池によって羽黒地区の灌漑条件はずいぶん改善したのでしょう。

 池越しに南に見える山は加波山ですが、天気が良いと水面にそのシルエットが美しく映ります。最近では冬になるとハクチョウが飛来することもあるようで、桝簑ケ池から移住してきたのでは、との情報もあります。

 小ノ池の脇にある石材店のところから左にそれ、旧道を上っていくと左手に愛宕神社が見えてきます。神社に登る階段の足元に台地を覆うローム  層と軽石の地層が見えています。厚さ30センチメートルほどの黄褐色の粗い粒の地層が見えますが、これは「鹿沼軽石(Ag-KP)」とよばれる、今からおよそ4万4千年前に群馬県の赤城火山が噴火した時に飛んできた軽石層です[8]

        

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10. 田んぼの中の小川、桜川の上流

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 高位段丘を横断し北側の低地に出ると桜川の上流にであいます。川にかかる橋から見ると、このあたりの桜川は川幅がわずか1メートルほどで、流れもほとんど目立たないような田んぼの中の小さな小川でした。川底には細かな砂がたまっているところもありますが砂利の堆積などはほとんどなく、想像していた岩だらけの渓流とは全く違っていました。

 実は、ずっと下流の、つくば市を流れる桜川中流域を巡る散策コース(コース02)では、河原いっぱいにこぶしくらいの大きさの丸い砂利が堆積していました。河原の砂利は上流から下流に行くにつれ小さくなるのかと思っていましたが、何故、桜川では上流に砂利がないのでしょう。これについてはそちらのコースで詳しく解説しています。

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11. 農民一揆のリーダーを供養する義民地蔵」

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 県道285号線(富谷笠間街道)との交差点を右折するとすぐ、小塩駐在所の隣に「義民地蔵」が祀られています。江戸時代中頃の寛延2年(1749年)、この地域一帯で起こった農民一揆の首謀者として死罪となった、磯部村名主の清太夫、亀岡村の太郎左衛門、そして富谷村の佐太郎の3名を供養する地蔵菩薩です。

 記録[3]によれば、この年の秋、前年からつづいた冷夏による農作物の不作のため、年貢を納められなくなった地元27村の農民およそ1000名が、年貢の減免と延納を要求して笠間城下に押し寄せた農民一揆がありました。結局訴えは受けいれられず、首謀者が捕らえられ、月山寺などの仲介もかなわずに3名が処刑されたということです。しかしこれを機に、笠間藩は、その後さまざまな対策を施すようになったそうで、後世になってから3名の徳をしのび供養する地蔵菩薩が立てられ参詣されるようになったとのことです。

 富谷笠間街道をそのまま東に進むと桜川の源流とされる鏡ヶ池がありますが、少し距離があるので、今回はコースから外しオプションとしました。もし、時間と体力があったら最後の見どころ<18>として追加していますので立ち寄ってください。

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12. 高峯の山桜、絶景のビューポイント

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<山桜絶景ビューポイント> 義民地蔵のすぐ東を左折し、マップを見ながら小塩、池亀の集落を通りすぎます。平沢集落の標高80メートルと書いてある丁字路を右折すると、道路右手に「山桜絶景」と書かれた石碑に巡り合います。石碑の真ん中に四角い窓が開けられていて、どうやらそこから眺める高峯山の山桜が絶景のようです。桜川市観光協会のホームページやパンフレットには見事な写真が載っていますが、次の桜のシーズンに是非訪れてみたいと思います。

  

<桜川の源流風景> マップを見ながらさらに曲がりくねった坂道を登り中山の集落に入ると「高峯見晴デッキ」があります。途中はかなりの上り坂ですから、無理をせずに自転車を押して歩いて進んでください。

 お疲れさまでした。デッキの標高は114メートルで、ここが本コースの最高高度点です。

 デッキの正面右奥に見えるのが高峯山(519.6メートル)です。ここから見る山桜もきれいでしょうね。是非春のシーズンに訪れてみたいと思います。


 目の前の谷川には大きな砂防堰堤がありますが、そのせいか、谷には岩などはなく穏やかな小沢という感じです。地質図を見ると、このあたりに花こう岩が分布していますが、かなり風化して真砂(まさ)になっていることが多いので、このようになだらかな小沢になっているのかもしれません。

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13. 大神台遺跡(おおかみだいいせき)

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  展望デッキから南へ下ると急に視界が開け、広々とした台地の上に出ます。

 このあたりの方に聞くと、もともとは樹木の茂った林だったそうで、その後伐採され、今は畑などに利用されているとのこと。したがって台地の表面やヘリはかなり人工的に造成されているかもしれませんが、それでも、もともと広い台地であったことは間違いないと思われます。

 その畑のなかから、縄文時代の土師器、須恵器などの土器や、石皿、磨石などの石器が多数発見されたそうで、詳しくはまだ明らかになっていないようですが、原始から古代におよぶ、幅広い遺跡のようです。さらに近隣からは、平沢古墳群・まなか古墳群などの古墳がいくつも見つかっているそうです。

 台地中央の十字路に案内看板が立っていますので気を付けて見つけてください。

<大神台駅家跡(おおかみだいうまやあと)比定地> 大神台は古代からの交通の要所でもあったようです。常陸の風土記にもこのあたりに駅家(うまや)があったと書かれているそうです。

 駅家というのは街道筋に一定の間隔(この場合はおよそ30里間隔)で築かれた駅のようなものらしく、遺跡など確実な証拠が残っているわけではないですが、周囲の地名や古道の歴史などからこの当たりだと想定(比定・ひてい)されているようです。台地中央の十字路あたりは新しい道でしょうが、台地の南縁を回ってくる道は常陸国府(石岡市)と上野国府(栃木市)を結ぶ主要な街道だったのでしょうか。

<大神台は高位台地> 大神台の地形は標高が90mから110mで、南に緩やかに傾斜していますが、頂面がほぼ平坦な段丘面だと思われます。北側の山地の延長にあり、山麓斜面の堆積物もあるので、地形分類図 では山麓と区分されていますが、月山寺などで見てきた台地とほぼ同じ標高ですので、平坦部は高位段丘と考えても良いと思います。

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14. 天神様の山桜と磯部の高台

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<桜川上流の桜並木> 大神台の台地から南へ、亀岡の集落を通り過ぎ、右手に香取神社をみて、信号のある十字路に出ます。この地域を東西に結ぶ主要道路、県道289号(富谷稲田線)を横断して、前に見た(がっさんじ)方面に向かって県道257号(西小塙真岡線)を進みます。

 途中で再び、桜川上流にかかる「桜橋」を渡ります。桜川の左岸には桜の並木が続きますが、これが最初に高峯展望台から見えた桜並木ですね。さらに進むと磯部の高台が見えてきました。

   

<天神様の山桜> 近づくと、高台の縁に一本の桜の樹とちいさな祠が立っているのが見えます。見晴らしもよさそうですので、自転車を置いて登ってみましょう。

 上から眺めると、いま走ってきたコースがすっかり見通せて、台地や低地、桜川の様子がよくわかります。祠の脇には「天神様の山桜」の碑が立っています。あとで磯部稲村神社の宮司さんに伺ったところでは、神社から見て鬼門にあたるこの場所にはもともと天神神社があったそうですが、県道257号の切通をつくってまっすぐ伸ばしたときに取り壊された、ということでした。

<ここは典型的な高位段丘?> 標高がおよそ67-68メートルあり、山地からも離れた盆地の中央に広がるこの平坦な高台は、典型的な高位段丘でしょうか。この大きな切通を建設したときには、高台の地層が丸見えになる露頭が現れていたに違いないのですが、今はそれが見られないのが残念です。

 高台の上から県道沿いに南を見ると、300メートルほど先に工場らしい大きな建物が見えます。実は帰った後で調べたのですが、この建物を建設したときに地盤を調べるために掘ったボーリングの資料がありました。資料によれば、地表から深さ十数メートルの地下、標高ならおよそ海抜50メートルくらいになりますが、その高さに貝殻交じりの地層があることが報告されていました。

 貝殻が海の貝か、あるいはシジミのような海岸近くにある沼に棲む淡水の貝かは分かりませんが、いずれにしてもこの地層は、当時のほぼ海面付近の高さに堆積したものだと推定できます。

<もう一つのボーリング試料>  ここで県道を離れ、右折して磯部の高台に向かいます。右手の低地には岩瀬桜川運動公園が見え、左手の高台には桜川市立岩瀬東中学校があります。中学校のグランドが見えてきたあたりに、実はもう一本、防災科学技術研究所が地下に地震計を設置するために掘ったボーリングがありました。その資料でも、やはりグランドから16メートルから20メートル地下に、標高でいうとやはり海抜50メートルくらいの高さに、粘土層があって、中に貝殻片が含まれているという記録がありました。

 ということで、このあたりの海抜50メートルくらいの高さには、昔の海岸または海岸近くの低地にたまった地層が広く分布しているようです。したがってこの台地は、水平な地層を土台としてできた高位段丘ということができるように思います。

 さらに詳しくは末尾にある【ジオコラム】「台地の地下地質」の項をご覧ください。

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15. 磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)

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 いよいよ磯部稲村神社につきました。

 神社の案内によれば、当神社は12代景行天皇(けいこうてんのう)の時代、景行40年(西暦337年)に伊勢の皇大神宮として創立され、その後この地に移祀されたとあります。このことについて、社務所におられた磯部宮司にお伺いしたことがありました。

 言い伝えでは、磯部宮司のご先祖が神社と共に、伊勢から鎌倉やつくばを経て当地にこられたそうですが、その年代などは明らかではない。当時、この地域は稲と呼ばれていて、もともとそこには稲村神社があったのですが磯部氏が来られたことでこの地が磯部と呼ばれるようになったのだという説明でした。そういえばつくば市にも磯部という集落があり磯部神社がありますね。

   

[ 追記:先日、つくば市の磯部に行ってみました。集落の西はしに集会場があり、その裏に石造の小さな祠がありました。地元の方のお話では、ここが磯部神社で、20年ほど前までは大きな社があったとのことでした。2024年2月11日]

 < 鯰の尾を押さえる石? >  本殿の左手に「要石(かなめいし)」と看板の立った小さな社がありました。説明によれば、当神社は鹿嶋市にある鹿島神宮の戌亥(いぬい)の方角、つまり北西の方角にある鎮守社としてあり、鹿島神宮が鰻の頭を押さえ、当社が尾を押さえて、古来より両神社で国土安泰・地震災難守護を果たしてきたと伝えられているようです。科学的根拠は別として、面白い言い伝えでしょうか。

 <ここで 謡曲「桜川」の原作がつくられた > 神社境内にはさまざまな種類の桜の樹があり桜のシーズンにおとずれれば楽しめます。何年も前になりますが、神社右手の林の奥で見事な枝垂桜の大樹を見たことを思い出します。

 古来からこれらの桜をめでる多くの歌や句があり、紀貫之はじめ様々なかたの歌碑や句碑が見られます。室町時代の世阿弥による謡曲「櫻川」は、永享10年(西暦1438年)に当神社の磯部佑行神主が時の管領足利持氏に献上した物語がもとに造られたという言い伝えは有名です。実際には諸説あるようですが、謡曲の内容や能についても、くわしくは文献[3] をみてください。

< 近くから大きなカキ化石が出土!! > 磯部宮司からいろいろなお話を伺ったなかで驚きの情報を得ることができました。宮司がおっしゃるのは「そういえば私の家で井戸を掘ったときに、穴の底から大きなカキの化石がたくさん出土しましたよ」と。「それは、昔の海面があった証拠ですよ」とお話しし、すぐに自転車で立ち寄ってみました。お宅は神社の東で少し坂道を下りたところの平坦地にありましたが、その標高は62メートルでした。井戸の深さは、正確には分かりませんが10メートルより浅いとすると、やはり、およそ標高50メートルくらいの位置に、かつての海面があったことは間違いなさそうです。

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16. 磯部桜川公園

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 神社を後に参道を南に進むとすぐに「天然記念物 桜川のサクラ」の碑がある磯部桜川公園が見えてきます。ここが本コース最後の<みどころ>です。

 これも宮司のお話ですが「昔は戦のたびに神社は要塞になって武士が立てこもり、今の公園の場所は馬場になりました。周囲には空堀が掘られ、今でも残っています」とのことでした。

    

 美しい山桜を集積する景勝地として古くから知られたこの公園の桜は、改めて昭和49年に国指定の天然記念物「桜川のサクラ」となりました。ヤマザクラはたくさんの種類があるようですが、この公園にはその中の11種ほどがあるそうです。景観だけでなく学術的にも貴重な植物として保護の対象になりました[6]。広い公園で駐車場もありますので、桜のシーズンにきてゆっくり鑑賞ください。

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17.終点・岩瀬駅

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 公園を出るとくだり坂になりますので、スピードを出し過ぎないよう気を付けて、一路スタート地点へ戻ります。

 途中、旧国道50号と交わるところで桜川の支流である塙川を稲荷橋で渡ります。このあたりの市街地は標高がおよそ52メートルとなっています。周囲の田んぼとの高度差は1-2mくらいしかないので見落としてしまいそうですが、地形分類図 をみると、ここは西小塙からつずく上位段丘 (Ut) として区分されています。およそ13万年前~12万年前に海面の高さが最も高くなった時代の「古東京湾」はこのあたりまで広がっていたのでしょうか。

 さあ、ここからは旧国道50号に沿って出発点の岩瀬駅まで戻ります。最後まで交通安全に気を付けて走りましょう。

お疲れさまでした。

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オプションコース>
18.桜川の源流「鏡ヶ池(かがみがいけ)」

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<桜川の源流を探る> 見どころポイント<11.義民地蔵>から県道289号(富谷稲田線)をさらに東に進むと、桜川の源流と言われる「鏡ヶ池」につきます。ゆるやかな登り坂になるので、今回は体力と時間に余裕のある場合のオプション・コースとしました。ときたま大型車両も通るので十分注意しながら走行してください。

 小川のような桜川に沿って2.7kmほどすすむと道路が大きく南へカーブする角に「鏡ヶ池」があります。水草の茂る小さな池ですが、新緑や秋の紅葉が美しく、池の水が年中枯れることがないとして古くから親しまれてきたそうです。

 池の脇の山道を500メートルほど登ると鍬柄峠(くわがらとうげ、標高172.2メートル)があります。そこが隣の笠間盆地との分水嶺です。このように桜川源流の集水域はほんのわずかな範囲だということが分かります。にもかかわらず、鏡ヶ池は年中涸れることがないというのは、いったいなぜなのでしょうか。

 なお参考までに、桜川水系の上流の分水界で最も標高が低いのは桜川市と笠間市の間の約85mで、次が石岡市との間の板敷峠の89.9mです。板敷峠の先は恋瀬川上流で水は霞ケ浦へ流れていきます。

 

 

 

 < 真っ白な山砂の産地> それでは来た道をもどりましょう。今度は下り坂なのでずっと楽です。

 途中の道路わきに、山を崩して真っ白な砂を採取している作業場がありました。白い砂は、実は花こう岩が長い年月をかけて風化してできた「真砂(まさ)」と呼ばれる砂です。よく庭園や校庭に敷かれることがあります。そういえば月山寺の枯山水の庭園にも使われていましたね。

 もとは堅い花こう岩であった証拠に、周りが風化して、中心がおむすびのように丸く残った花こう岩も転がっていました。真砂は石材の花こう岩と共にこの地域の重要な産品として販売されています。

 ちなみに、このあたりの地質図を見てみましょう。鏡ヶ池を含め周囲一帯が花こう岩でできていることが分かります。鏡ヶ池が年中枯れないのは、このような真砂の山に大量の地下水が貯留されているからかもしれません。

<のどかな桜川の最上流部> 桜川の最上流部が道路と交叉するところが何カ所かあります。橋のたもとに自転車を止めて、川底を見てみましょう。きらきら光る真砂だけが川底にたまっている、ほんとうにのどかな小川でした。 

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<あとがき>

  今回は、羽黒盆地の全体を巡る、距離も長く起伏も結構あるややハードなコースでしたが、いかがでしたか。まずはお疲れさまでした。

 はじめ高峯山の展望台から見たとき、もしかして、羽黒盆地が太古の昔に海であった証拠が見つかるかもしれない、磯部という地名も何か海に関係するかも知れない、との期待がありました。結果的には、このコースでは海の地層の露頭などの直接的な証拠はみつかりませんでした。

 しかし、実際に現地の地形を見ながら、すでに公表されている文献や調査記録を改めて調べてみると、太古の海「古東京湾」がこのあたりに存在した可能性がいくつも指摘されていることがわかりました。磯部稲村神社の磯部宮司からのお話も、海の存在を示唆していると考えられます。もちろん、本当に海面下だったのか、ただ海の近くの低地だったのかなど、厳密にはいろいろ議論もあるようですので、今後さらに調査や研究が行われると良いと思います。

 また、今回の「りんんりんジオ散策」を終えて、新たな疑問もうかんできました。なぜ小さな桜川の上流にこのように広い盆地ができたのか? なぜ「高位段丘」が広く見事に残っているのだろうか? などです。風化した花こう岩は侵食されやすいためなのか、海による侵食作用は河川以上に激しいためなのか、後の時代に大きな河川が近くになかったので元の地形が残されたのか、など、あたらしい課題も増えたように思います。

 古代の街道から、鉄道や新しい道路の建設など、この盆地の地理や地形の特徴がいつの時代にも活かされ、人々の歴史とその変遷に大きなに影響を与えてきたようなのも面白かったです。

 ということで今回も「りんりんジオ散策」の魅力を十分味あうことができたと思います。途中でいろいろなことを教えてくださった、地域の皆さんに感謝いたします。

<完> 

【謝 辞】日ごろからご指導いただいている下記のメンバーの方々に感謝いたします。

   ・つくば里山研究会

   ・ジオトレアカデミー

   ・筑波山地域ジオパーク推進協議会

 

近隣のおすすめグルメ店、コンビニ店

  • あじさい(うどん屋)  桜川市友部 1037-2 tel : 0296-76-2088

  • 魚勝(蕎麦店)   桜川市西小塙 845-2   tel : 070-4105-4564

  • らーめん「美春」    桜川店桜川市友部 tel : 0296761835



  • 札幌ラーメン「道産嫁」  桜川市西小塙543

  • インドネパールカレー 「レストランラージャ」 桜川市友部895−1

  • 「ミニストップ 岩瀬羽黒駅入口店」 桜川市友部字関田973−1

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【参考資料】 

本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.12.20参照)

[2]【桜川市】 桜川の糸桜

    https://sakuraibaraki.localinfo.jp (2023.10.23参照)

[3] 岩瀬町編(1987) 岩瀬町史 通史編

[4] 5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真岡」

  この地域の図面は【ジオコラム】を参照

[5] 桜川市商工観光課発行(2023) るるぶ特別編集「桜川市」

     https://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/doc/1679552169_doc_36_0.pdf  

   (2023.12.10参照)

[6] 桜川市商工観光課発行パンフレット 「さくらめぐり」

   http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000508.html

[7] 霞ケ浦用水事業について、 茨城県ホームページ

  https://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/nishinourin/tochi/jigyo/tochikai/kasumigaura-irrigachion-project/index.html   (2023.12.10参照)

[8] 小松原純子・大井信三 (2020) 鹿沼軽石 (Ag-KP) の噴出年代、地質ニュース、

    Vol.9, 315-316

【ジオコラム】

地質図

下図は[「シームレス地質図V.2」の本コース周辺の地質図上に、コースのルートを加筆して作成。地質図の説明記号は下記の「20万分の1地質図幅「水戸」(第 2 版)」による。

  出典: https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441 

      (2023.04.05参照)

  出典:吉岡敏和・滝沢文教・高橋雅紀・宮崎一博・坂野靖行・柳沢幸夫・高橋  

      浩・久保和也・関 陽児・駒澤正夫・広島俊男  (2001) 

       20万分の1地質図幅「水戸」 (第 2 版)

【地質図の記号説明】 

 Ig:稲田花こう岩、Js:ジュラ紀付加コンプレクス(八溝層群)砂岩、

 Jsm:同砂岩泥岩互層など、Sk:境林層及びその相当層(礫・砂

 および泥、中期更新世)、tm:中位段丘堆積物

花こう岩:地下深い場所(地下数キロから10キロメートル)で高温のマグマがゆっくり冷えて固まった火成岩の一種。含まれる鉱物の違いで石英などケイ酸塩鉱物の多い白っぽい花こう岩とケイ酸塩鉱物の少ない黒っぽいはんれい岩とに分類されます。

真砂(まさ):花こう岩(類)がその場で風化してできた白色~淡灰色の砂、およびそれが移動して堆積した堆積物(真砂土ともいう)です。小さな岩石片から成る粗い砂から粘土のような細粒分を含むものまであり、一般に土木機械で容易に掘削できます。風化し残った元の花こう岩が丸い核のように残っていることもよくあります。風化してできた粘土はカオリンを多く含むので陶磁器の主要な原料となります。

更新世(こうしんせい):地質時代の区分で、今から258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です

 

地形分類図:5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真岡」を基図にルートを加筆して作成

【地形分類図の記号説明】

M:山地(起伏量100m以上)、Hp:丘陵(起伏量100m以下)、Hs:丘陵頂平坦面、Ut:上位砂礫台地、Mt:中位砂礫侵食段丘群、Lt:砂礫侵食段丘群、P:谷底平野と後背湿地

丘陵、頂部に平坦面を持つ丘陵:山地に対する平野の地形は高さの順に「丘陵・台地・低地」に区分されます。山地より低く台地より高いおよそ100mより低い起伏を丘陵とよびます。地形分類図の説明によれば、「羽黒盆地では丘陵の延長上に頂部に平坦面をもつ丘陵が良く発達する。このような平頂な丘陵は標高が60m以上あり、海成の砂層や泥層を含む多摩期(更新世中期)の海進に伴う海成堆積層で構成される。友部地方の友部層と同時代の小内湾ないし入り江の地層と考えられる」と記載されています。

高位段丘:本文では、「頂部に平坦面を持つ丘陵」を便宜的に「高位段丘」と呼んでいます。

上位段丘:地形分類図の説明書によれば、 羽黒盆地の上位台地・段丘(Ut)については「今から13-12万年前の下末吉海進の海進に伴う谷埋め堆積物や、貝化石を含むシルト・粘土層など沿岸の入り江ないし湖沼の堆積物からなる台地で、表層を鹿沼軽石層(Ag-KP,4.4万年前)をふくむローム層でおおわれる。貝化石層の分布上限は標高45m付近となる」と記載されています。

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台地の地下地質

 少し専門的になりますが、<みどころ14.>でふれた台地の地下地質についてもう少し詳しく見ててみましょう。

 下図のA,B 2か所のボーリングのデータには、この地域の地下十数m(標高50m付近)には、昔の海底または海岸付近の低地で堆積した地層が広く分布していたことが示されています。

<ボーリング位置図>

<ボーリングによる地下地質柱状図>

ボーリングデータは下記の「ジオステーション」から公表されています。

   出典: https://www.geo-stn.bosai.go.jp/mapping_page.html