【あとがきに替えて】 <りんりんジオ散策>のもう一つの楽しみ

<りんりんジオ散策>のもう一つの楽しみ

                            (2025.4.20)

 りんりんジオ散策を続けていると、新たな楽しみ方もあることに最近気がつきました。まず、コースによって大地のでき方や自然環境が微妙に違うことに気がつきます。なぜそうなのかが気になりますが、同時に、人々は、そのような違いをどのように生かして畑や集落をつくったのか、その特徴は何なのだろうか。大地をはじめとする自然環境と人々の生活との関係は、歴史とともにどのように変わってきたのか。将来、このような関係は変わるのだろうかなどと、興味や関心がますます増えていきます。

  すぐに答えの出るテーマではないのですが、そんなことを考えながら走ってみるのはもう一つの楽しみになるかも知れません。

<SDGsやジオパークが目指す目標について>    これらのテーマは、最近よく耳にする SDGsジオパークの活動の目標とも関連するのかも知れません。関連のホームページや参考書を読んで、その活動が目指す目標との関わりについても考えることで、散策の楽しみがさらに奥深くなると良いですね。

【コラム】

SDGsについて

 

 

 

 SDGsの17目標は互いに関連していますが、下の図のように、これらを3つの軸に分類してみました。People(人)、Prosperity(豊かさ)、Planet(地球)です。それぞれの目標に向かって調和のとれた進歩が必要ですが、ときには互いの目標が矛盾することもあります。目標⑰パートナーシップはそのための調和としました。

 このなかで、3番目のP軸(地球)はいわば人類の発展の土台で、これまでは無尽蔵だと考えられてきました。しかし20世紀になって地球とその環境には限界があることが科学的に認識されるようになりました。将来の世代のために、それをどのように保全し再生していくかが課題です。そのためにもその歴史と仕組みを正しく理解して伝えていくことが求められています。





 

ジオパークについて

                                  

                           

 

 

 

2. 石と歴史のまち、真壁を訪ねる

 

                (初回公開:2025.10.31、最終更新:2025.11.17)

コースあらすじ

 真壁は、江戸時代の町並みが今も残る歴史情緒あふれる街です。静かで落ち着いたたたずまいはどこか懐かしく、訪れる人の心にふるさとの風景を思い起こさせます。  

 また、真壁は近くの加波山から切り出される「真壁石」と呼ばれる花こう岩を用いた石材産業によって発展してきた街でもあります。 さらに、桜川を渡った西側には、真壁台地の広大な田園地帯が広がっています。

 この大地はどのようにして生まれ、人々はどのようにこの土地とともに暮らしてきたのでしょうか。 その歴史と大地の関わりを自転車で巡りながら体感できるのがこのコースの魅力です。 

 コースでは「つくば・りんりんロード真壁休憩所」を起点にスタートし、まずは真壁の街なかで、歴史的建造物が立ち並ぶ街並みを散策。その後、桜川を渡って真壁台地へ向かい、八柱神社や古代寺院の跡をたどりながら、台地の成り立ちや人々の暮らし、土地利用の多様な様子を観察し、対岸にそびえる雄大な筑波山を遠望します。 ふたたび桜川の左岸に戻り、真壁の歴史を見守ってきた五所駒瀧神社や、真壁城主累代の墓を訪ね、最後は、山麓の地形を巧みに生かして築かれた真壁城跡をめぐって起点に戻ります。           

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コースデータ

 コースは、五所駒瀧神社の周辺を除けばほとんど平坦な台地上を走りますので、比較的楽に走行できます。距離はやや長めですが、その日の状況で適宜コースを変更し、無理のない散策をお楽しみください。できるだけ車の往来の少ない道を選びましたが、安全には十分注意し、交通ルールを守って走行してください。

  • 起点:りんりんロード真壁休憩所(旧筑波鉄道「真壁駅」)

  • 終点:起点にもどります

  • 走行距離:約 16.7 km、高低差:約 35 m

  • 所要時間:約 5 時間(走行時間は約 3.5 時間  )

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コースマップと高低差

                        <地理院地図より作成>

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段採図

                        <地理院地図より作成>

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<起点からの距離と高低差>

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<コースの詳細マップ>

   <Google Map>を使って現在地やコース周辺の地図をを詳しく見ることができます。近隣の観光地やレストランなどの情報もわかります。

 

<地理院地図を拡大して、地形や標高などを確かめましょう>

    下記のリンクから<地理院地図>を任意に拡大・縮小して、地形の特徴を詳しく見ることができます。

 右下のマークを押すと現在地に移動します。地図をスクロールして任意の場所を中心(+)に合わせると、左下の矢印の先にその場所の標高が表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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おもな見どころ

1. 起点 <つくば・りんりんロード真壁休憩所>

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 起点は、旧筑波鉄道真壁駅跡に整備された「つくば・りんりんロード真壁休憩所」です。かつてのホームが今も保存されており、現在はきれいに改装された休憩所として利用されています[1] 。残念ながら、この休憩所にはレンタサイクルの施設はありません。最寄りのレンタサイクル施設は「筑波休憩所」ですが、りんりんロードを経由して約9.9キロメートル先にあります。    

    

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2. 街なかの文化財

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 <いったいいくつの門があるのでしょうか> 休憩所を出てすぐ南の道を右折し、昔からある街並みを走ってみましょう。

 上宿通りを少し進むと、左手に立派な門構えの家があらわれます。門の脇には「文化庁 登録有形文化財 猪瀬家薬医門」の標識が建っています。典型的な門構えの建築様式をよく残した建物です。道路のすぐ反対側にも同じく土蔵と薬医門が建っています。脇にある看板をみると、この一帯が「桜川市真壁伝統的建造物保存地区」に指定されていることがわかります[2]。進むたびに次々と重厚な門や蔵が姿を現します。いったいどれほどの門があるのでしょうか。くわしい観光マップや解説などがありますので、それを利用すると便利です 。

 

 <真壁の地下水で支えられた江戸時代からつづく醸造所> さらに進むと、下宿通りの交差点に醸造所があります。ここでは、土蔵や店舗、そして煙突までが登録有形文化財になっています。醸造所の創業は江戸時代の延宝年間(1673〜1680年頃)と伝えられますから、実に350年も続いていることになります。

 店舗内の案内によれば「酒造りに使う水は、近くの加波山の花こう岩を浸透し、山麓の砂層を流れてきた地下水で、宮水として最も適している」とのことでした。真壁では、このほかにも醤油などの醸造所も昔から続いているようです。

 <見違えるようににぎあう雛祭りや祇園祭> 普段は人通りも車の往来も少ない静かな街ですが、3月の雛祭りや7月の祇園祭では、近隣だけでなく遠くからの観光客で街が見違えるようににぎわいます。今年の7月、祇園祭の最終日に出会いました。

 五所駒瀧神社から迎えたお神輿が、4日間町内に滞在したあと、再び神社に戻るとき、町内の山車と市民が見送る祭事でした。別れを惜しむ山車の動きが実に興味深く、しばし時を忘れて、江戸時代から続く400年もの歴史を感じる時代絵巻を楽しみました。この祭りは、国の無形民俗文化財に選ばれているそうです[4]

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3. 真壁伝承館歴史資料館

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 <一目でわかる真壁の歴史> 醸造所の十字路を右折すると、真壁伝承館があります。モダンな建物で、公民館や図書館と一緒に歴史資料館が併設されています。

 この場所は、江戸時代に真壁を治めた陣屋があったところだそうで、古代から中世、そして近現代にいたる真壁の歴史が、出土品や模型などを使って分かりやすく展示されています。自転車を置いて、少しの時間でも見学することをお勧めします。

 伝承館の北側には、「真壁小学校跡・教育発祥の地」と刻まれた碑が建っていました。資料によると、真壁小学校は明治6年(1873年)、この地にあった陣屋の建物を利用して開設され、のちに郊外に移転したそうです。

 明治初期の初等教育で使われた教科書をみると、当時は読み方・書き方や算術などと並んで、郷土をはじめ、日本や世界の地誌・地理が重要な科目だったことがわかります[5]

 伝承館を見た後も、せっかくですから観光マップを見ながら、仲町通りや陣屋前通りなど、好みの道を巡ってみましょう。陣屋前通りの十字路角にある「旧真壁郵便局」は、現在は観光の拠点になっていて、パンフレットや地図などを入手できます。

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4. 密弘寺

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 下宿通りを西に進むと、高台のへりに真言宗・高野山派の古刹、密弘寺があります。鎌倉時代の宝治元年(1247年)の創建と伝えられた寺院で、中央の不動堂(護摩堂)は一度焼失し、天保11年(1840年)に再建されました[7]。向拝部の柱や木鼻部などに施された彫刻は実に見事で、当時の職人の技と美意識を今に伝えています。

 境内には樹齢約500年のケヤキの大木があり、桜川市の天然記念物に指定されています。門柱前の常夜灯には「文政7年(1824年)仲町石工久保田吉兵衛」の銘が刻まれています。久保田家は真壁を代表する石工の家系ということで、後で訪れる八柱神社の常夜灯にも同じ石工の銘があるそうです。

 <見晴らしの良い台地のへりに建てられた不動堂> 境内の地形を見ると、この不動堂は町屋中央からつづく台地のへりに位置していることが分かります。下宿通りを走ってきたとき、ほんのわずかな下り坂になっていました。車で通ったら気が付かないほどの高低差です。

 地形分類図地質図を見ると、この辺りには高低2つの段丘面があることが示されています。不動堂の建つ場所は、その境の斜面にあたります。神社や寺院は、しばしばこのように見晴らしの良い場所に立地しています。

 標高が約40メートルの高い方の段丘面は、いわゆる中位段丘面で、今からおよそ10万年前、この地域を流れていた古い河川によって形成されました。地形分類図では中位段丘面(Mt)に分類されています(地質図では常総面(Jo))。すこし低い西側の段丘面(斜面)は、約8万年前以降、地球の気候が寒冷化して海面が低下していく過程で出来た下位段丘面です。地形分類図の下位段丘面(Lt)(地質図では低位段丘堆積物(lt))にあたります。詳しくはジオコラムをご覧ください。

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5. 塙世橋(はなわぜばし)  

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 下宿通りを西に進むと、右手に真壁高校と桜川市役所真壁庁舎が見えてきます。庁舎の庭には、大正7年に真壁の石工稲田亀吉が作ったという浅野長勲夫妻の石像が建っています。もともとは山麓の伝正寺にあったのですが、2011年の東日本大震災で被災して、この場所に移築されたものです。  

<台地を削って流れる桜川、河原の砂はどこから来た?> 通りをさらに進むと、道はやがて水田の中を抜け、県道7号線(石岡筑西線)に合流します。そこから桜川に架かる塙世橋(はなわぜばし)へと向かいます。 

 塙世橋の中央に立つと、北東の方向には加波山や雨引山、そして雨引観音が遠望できます。加波山の山麓には花こう岩の石切場が点在している様子がよく見え、真壁ならではの素晴らしい景観を楽しめます。

 桜川は川幅が20~30メートルほどあり、河床には花こう岩質の砂や角張った小石が堆積しています。左岸側には標高30メートル弱の水田地帯が広がる一方で、右岸側には標高35~40メートルほどの台地(真壁台地)が川際まで迫り、明瞭な段丘崖が作られていて、両岸の地形の違いがひとめで分かります(段採図参照)。

 なお、河床に堆積している砂が気になり、別の機会に、実際に上流の河原へ降りて観察してみました。たしかに、粒の大きい角張った石英などが多く含まれている、いわゆる「マサ」(花こう岩が風化してできた砂)由来の砂が多いことが確認できました。つまり、このあたりの砂は、桜川の上流域や左岸側の、花こう岩からなる筑波山塊から供給されたものだと考えられます。     

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6. 八柱(やはしら)神社

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<真壁台地のへりに建つ八柱神社> 塙世橋を渡ると、すぐ右手にコンビニのある交差点があります。コンビニの裏手に広がる畑をよく見ると、関東ローム(赤土)でできた緩やかな斜面になっており、この台地が更新世に形成された地形であることが分かります。

 横断歩道を渡り、台地のへりに沿った旧道を南に200メートルほど進むと、八柱神社に上る参道の石段が見えてきます。階段は登らず、右手に小さな空き地があるので、そこに自転車を置き、脇の坂道を登っていくと神社の境内にたどりつきます。    

                   

 <本殿に込められた人々の願い> 八柱神社は、もとは金剛院という大きな古刹の一つで、「塙世の聖天様」と呼ばれた寺院でした。本殿は江戸時代後期、天明5年(1785年)に建てられたと伝えられています[7]。当時は、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火につづく干ばつや冷夏、そして桜川の洪水などの天災で農村が荒廃していく最中でした。聖天堂と呼ばれたこの本殿が建てられたのは、まさにこのような時代に、人々の切実な願いを託すためだったのでしょう。

 八柱神社となったのは、明治初期の神仏分離の際に、本殿内の塙世神社と村内の7社が合祀されたためだということです。

 <目を見張る精巧な彫刻> 現在も残るこの聖天堂には、一面に精巧な彫刻が施されており、見る者の目をひきつけます。写真はその一例で、本殿の東の壁面や唐波風、柱に彫られている彫刻です。その他の壁面も同様で、どれも中国の故事にちなんだ彫物だといいます。もともとは極彩色に彩られており、壁面裏の墨書に彫物師や彩色師の名前が銘記されているそうです[7]

 また、表の拝殿前の常夜灯には、密弘寺と同じ「仲町石工久保田吉兵衛」の銘が刻まれているそうです[6]

<真壁台地はどのようにしてできたのか> 八柱神社は標高が40メートル弱の真壁台地の上に建っています。自転車を止めた道路わきの小さな崖の露頭に、この台地を作る地層が現れていました。

 最上部の地層は、厚さ約50センチメートルの粘土層で、その下約1メートルは、傾斜した「斜交層理」と呼ばれる粗い砂の縞状の地層からできています。これは典型的な河川の堆積物で、川の流れが右から左へ、すなわち北から南方向に流れていたことが分かります。

 今からおよそ10万年前、この辺りは広い平野で、大小の川が流れ、その周りに砂や粘土からなる低地がひろがっていました。露頭で見えたのは、その時に堆積した地層です。その後、寒冷化に伴う海水面の低下で低地は干上がり、上に関東ローム(赤土)が積もって台地ができたことが分かります。地形分類図 では、中位段丘(Mt)と分類されていますので、はじめに訪れた真壁の街と同じ台地になります。街なかの台地の地下も、同じような地層で出来ていると考えられます。

 なお、この地層を形成した当時の川は、現在の桜川とは別の河川だったと考えられます。というのは、先ほど塙世橋の下で見た河床の砂と、この露頭に見られる砂とでは性質が異なるからです。実際、こちらの砂層には、現在の桜川に特徴的な、花こう岩の風化によって生じたマサ起源の砂が含まれていません。したがって、真壁台地をつくった昔の川は、当時の広大な関東平野を流れていた、別系統の河川であったと推定されます。

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7. 真壁石材塙世団地、台地にひろがる田園風景

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 コンビニがあった交差点まで戻り、県道7号線を西に進みます。120メートルほど進んだところで右折し、さらに左折して真壁石材塙世団地を目指します。

 <台地上の豊かな田園風景> この辺りからしばらくは、標高約40メートルの平坦な真壁台地の上を走ります。水はけのよい関東ロームの土壌に覆われた広大な畑地では、夏は麦やネギが、秋から冬には蕎麦や大豆が栽培されていました。遠くには加波山や燕山、雨引山を望むことができ、豊かな農村風景が広がります。       

 <石材産業で栄えた真壁> 畑の中の道を5キロメートルほど走ると、石材工場がならぶ真壁石材塙世団地に到着します。広い道とのX字型の交差点があるので右折すると、とつぜん道路際に巨大なのこぎりがそびえる石材工場が現れ、思わず目を見張ります。道路わきの空き地に止まって、外から見学させていただきましょう。                        

    

 <国内有数の高級石材 ”真壁小目”> 真壁は100年以上前から、地元の花こう岩を採掘してきた石材の生産地です。加波山の山麓には今でもいくつかの石切り場が見えます。

 通りがかった折に、工場の方に真壁の石の特徴を聞いてみました。「特に”真壁小目(まかべこめ)”と呼ばれるやや黒みを帯びた真壁石は、堅牢で美しく、粒が細かいため、文字や細かな彫刻に最適です。全国的にも香川県の庵治石(あじいし)に次ぐ高級石材です」と誇らしげに語ってくださいました。

 真壁の石材産業について、詳しくは石材協同組合のホームページをご覧ください[9]

 <世界を代表する石材遺産に認定!> つい最近、笠間の稲田からつくばにかけての筑波山塊で産出する花こう岩が、国際学会によって「世界を代表するヘリテージストーン(石材遺産)55選」の一つに認定されました[10]。東京駅前広場の敷石をはじめ、過去には迎賓館や都電の敷石などに使われてきた実績や、科学的調査や採掘跡の環境保全などの取り組みが評価された結果です。これをきっかけに、真壁などの花こう岩のブランド力が高まり、地域の石材産業がさらに発展する機会になることが期待されます。

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8. 長者池揚水機場

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 来た道を戻って、700メートルほど南方向へ直進すると、再び県道7号線に出ます。右折して西方向に600メートルほど走ると、台地の中を刻む谷筋の低地に差しかかります。谷筋の緩やかな坂道の上に大きな長者池が現れます。桜の時期には池の周りの桜並木がとても美しく、地元でも人気の場所です。

 <霞ケ浦の水が真壁台地を潤す> 池の周りを一周してみましょう。池の一番北には長者池揚水機場と巨大な吐水塔が建っています。実はこの施設は、霞ケ浦用水の仕組みの一部を担っていて、つくし湖まで送られてきた霞ケ浦の水がここで増圧され、吐水塔からさらに高い位置へ送水されているのです。吐水塔の高さはどれくらいあるのでしょうか。これだけの高さがあれば、真壁台地だけでなく、さらに西方の筑西市方面にまで水を送ることができるそうです[11]。 

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9. 下谷貝長者池遺跡  ― まぼろしの古代の廃寺跡

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 <まぼろしの廃寺跡> 長者池を回る道の北端の丁字路から、住宅の間の細い道を北へ600メートルほど行ったあたりで見つかったという、下谷貝長者池遺跡は本当にあるのでしょうか。

 歴史資料によれば、この辺りから古代寺院に特有な瓦が多数出土しており、廃寺、あるいは郡衙(郡役所)の跡があったのではと考えられているようです。ただし、建物があった証拠を示す礎石などの遺構は見つかっていないそうです[12]

 資料に掲載されていた地図(下図)を頼りにあたりを探してみましたが、わずかに小高い畑や林があるだけで、標柱なども見つかりませんでした。

 なお、この廃寺跡が、ここから約7キロメートル北西にある、新治廃寺跡や新治郡衙跡と筑波山を結ぶ線上にあることについて「偶然ではないのでは」と指摘する見解 もあり[12]、たいへん興味深いところです。実際この辺りからは、筑波山が長者池のすぐ先にそびえているのが見えます。

   

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10. 雷電神社と昔の農村のくらし

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 <雨をよぶ神に託して> 下谷貝長者池遺跡のある台地の中央部は、標高が約42メートルありますが、今ではそんな高い所にも水田があるのには驚かされます。揚水機場のおかげでしょう。

 畑や森の中の道を南に進み、再び県道7号線に出ると、十字路のかどに雷電神社が見えてきます。ここも桜の名所として知られ、地元で人気のある神社です。

 雷電神社がいつ頃建てられたのかなどの由緒はよくわからないようです。祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)で雷や雨を司る神ですから、古来から雨を呼ぶ神として祀られてきたのでしょう。雨が少ないとき、とりわけ台地上でくらしていた昔の人たちは、干ばつなどの被害にいつも悩まされていたに違いありません。

 <江戸時代には農村の人口が半減したことも> 江戸時代、真壁地域の領地(5万石)は、地味が良い桜川東側の水田地帯の「川内領(2万石)」と、地味の薄い西側の台地の「川外領(3万石)」に分けられていたそうです[3]。このうち、川外の集落は常に水不足に悩まされていましたが、とくに、江戸時代後期、天明から天保の時代にかけては、浅間山の噴火をともなう干ばつや冷夏、さらに疫病の蔓延などで大きな打撃を受けました。その結果、人口が半減した村などもあり、この時期の農村の疲弊は社会変化にも表れたといわれます[3]。詳しくはジオコラムをご覧ください。

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11. 真壁台地の景観、ゆるやかに広がる田園

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 <ゆるやかに広がる台地の地形を生かした土地利用> 雷電神社を後に、昔の人々の苦労を思いながら、雷や細芝、上西郷谷集落へと、のどかな田園の道を進みます。

 この辺りは真壁台地の中心部ですが、東の桜川から延びる小さな支谷が台地を刻み、緩やかな起伏を作っています(段採図参照)。谷筋の中央には水田がつづいていますが、その周囲には、斜面や低い台地が広がります。

 地形分類図  や地質図でば、このような地形は、中位段丘(Mt)から続く、下位段丘(Lt)や斜面(S)に区分されています。およそ10万年前にできた中位段丘は、その後の地球の寒冷化と海面低下にともない徐々に浸食され、支谷のまわりに斜面や下位段丘が形成されたと考えられます。

 高さの違うこれらの地形に沿って、果樹園や蕎麦、ネギ畑、水田などが広がり、地形の違いを季節ごとに活かした農地利用の様子がよくわかります。そして、なんといっても、そこにそびえる筑波山や加波山の美しさは圧巻の絶景でした。

 

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12. 香取神社

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 低地に沿ってさらに南に1.3キロメートルほど下り、須津賀集落を通り過ぎると県道131号線(下妻真壁線)に出ます。横断歩道がないので注意して県道を渡りましょう。向かいには自動販売機がある休憩広場がありますので、ここで一休みできます。広場の隣に香取神社がありました。 

 このあたりは標高が約35メートルほどある真壁台地の先端部になり、目の前を桜川が流れています。台地のへりは高さが10メートルほどもある明瞭な崖になっていて、桜川の浸食による段丘崖どであることが良く分かります(段採図参照)。 

 関東地方の香取神社がしばしば河川近辺にあることが多く、古代・中世の地域支配や水利・交易と関連付けて説明されることがあると聞いたことがあります。しかし、当地の香取神社がどうしてここに在るのか、どのような歴史があるのかは分かりません。

      

  

 

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13. 源法寺遺跡(源法寺廃寺跡)

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 <まぼろしの源法寺はどこにあったか?> ひと休みしたら、県道を再び横断し、ガードレール沿いに北へ進みます。200メートルほど走ると、道路反対側の畑の中に「筑波滝の山共同墓地」が見えてきます。 

 歴史資料によれば、実はこの辺りに古代の源法寺廃寺跡があったと考えられているのです(下図)[12] 。 

 源法寺廃寺跡と推定されているのは、この付近から大量の古代瓦が出土しているためです。これらの瓦の特徴は、さきほど通った下谷貝長者池遺跡や、北西に10数キロメートルはなれた新治廃寺跡の瓦と共通点が多いということです。ただ、やはりここでも、寺院の建物の礎石などは見つかっていないとのことでした[12]

   

 

    

 <古代の人々もここから筑波山を眺めていた?> 興味深いのは、これら3つの遺跡が、筑波山をのぞむ直線上に並んでいるということで、当時の筑波山信仰と深く関わっていたのではないかと考えられている点です[12]

 改めて東の方向を見ると、筑波山がすぐ眼前にそびえていました。古代の人々も、この場所から同じ景色を眺めていた、と考えると面白いですね。

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14. 源法寺橋と源法寺焼

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 源法寺遺跡を後にして、県道を700メートルほど北へ進んだところで、「⇒八柱神社」と書いた案内標識がありますので、右折します。ここも横断歩道がないので、道路を渡るときは十分注意してください。

 真壁台地の崖に沿って坂を下りていくと、途中でいくつかの小さな谷を横切ります。浅い谷底には水田が広がり、その周りの低い台地や斜面はローム層の畑として利用されています。これらの地形も下位段丘や斜面にあたると考えられます。

 まもなく信号のある十字路に出ますので、そこを右折すればすぐ源法寺橋です。

 <源法寺焼、かつて関東一の植木鉢生産地だった> コースから外れますが、右折せずに少し進むと、ポツンと1軒の石像彫刻店がありました。お店の方は彫刻作業の最中でしたが、手を休めたときにいろいろお話を伺うことができました。

 昔はこのあたりの谷底から結構大量の粘土が採れて、近所でも多くの焼き物が作られたそうです。資料館発行の冊子にも、明治時代末期から昭和30年代頃まで、このあたりでは「源法寺焼」という焼き物が盛んにつくられたことが記録されています[13]

 桜川対岸の東山田地区の「山田焼」と並んで、「源法寺焼」は真壁の主要な焼き物でした。製品はおもに植木鉢や土管などで、特に植木鉢は飛ぶように売れ、一時期は関東一の生産地として黄金時代を迎えたことがあったそうです。現在は陶器店もほとんどなくなりましたが、近所に1、2店は残っているとのことでした。

 資料によれば源法寺焼の原土(原料となる粘土)は、すぐ近くの源法寺橋近辺から採取されたそうですが[13]、いまではその場所はよくわかりません。原土についての詳しい情報は、ジオコラムをご覧ください。

<源法寺橋からみた桜川の河床と筑波山>  桜川に架かる現在の源法寺橋は1993年(平成5年)12月に竣工したものです。「今昔マップ」で昔の地図を見ると、かつてこのあたりの桜川はかなり蛇行していたようですが、その後の河川改修によって、今は幅10~20メートルほどの、ほとんど流れがないゆるやかな川になっています。

 橋の上から、真下にある桜川の河床がよく見えます。塙世橋の河床と同じように、ここも、白っぽい細かな花こう岩質の砂と、2~3センチメートルほどの大きさの角ばった砂利からできているのが分かります。

 橋から、筑波山はいよいよ目の前にそびえて見えます。

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15. 五所駒瀧神社

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 <一元化された現代の小・中学校> 源法寺橋を渡り、桜川の左岸に出て、次の見どころ「五所駒瀧神社」を目指します。田んぼを抜けて、少し小高い伊佐々の集落に入ると、 右手に3階建ての大きな校舎が見えてきます。この学校は、本年(令和7年)の4月に開校した桜川市立真壁学園義務教育学校、もともとの桜川市立桃山学園に、市立桜川中学校と樺穂小学校、谷貝小学校が統合されて開校した学校です。少子化が進んでいく中で、真壁地区の学校がここに集約された、現代の学校の姿ということなのでしょうか。

 <水田から段丘、山麓斜面へ> このあたりの標高は35~36メートルほどで、周囲の田んぼより7~8メートル高い台地になっています。地形分類図地質図を見ると、下位段丘(Lt)から徐々に高度を増して、山麓斜面(Ps)へと続いていることが分かります。そのまま進み、つくば・りんりんロードを横断して県道41号線との交差点までくると、標高は50メートル近くになります。

      

 山尾の集落を一気に通り過ぎて中山尾まで来たら、角に目印の石碑がある交差点がありますので、そこを右に曲がり、谷川沿いの上り坂を東へ進みます。 コースの終盤になっての坂道は少々きついですが、緑陰の景色を楽しみながらゆっくり進みましょう。

 <深遠な山麓の森にたたずむ神社> 突き当りに見えるのが、山尾の山麓に鎮座する五所駒瀧神社です。社伝によれば、承安年間(1171年~1175年)に、初代真壁城主の真壁長幹(たけもと)一族が、真壁家の氏神として駒瀧大明神を創建したのが始まりと伝えられています。明治期になると、周辺の4つの神社が合祀され、現在の五所駒瀧神社となりました。

 本殿は宝永元年(1704年)に、地元古城の増渕清兵衛を棟梁として再建されたもので、現在は桜川市指定文化財に指定されています。壁面や向拝部、木鼻など、随所に華麗な彫刻が施されていますが、彫物師は不明とのことです[7]。参道入口の花こう岩の大鳥居には、「享保8年(1723年)石屋清七郎(忠次郎 権太郎)」の銘が刻まれているそうで、当時の真壁の石工技術の高さがうかがわれます[6]。苔むした木立に囲まれた境内は、静寂と荘厳な雰囲気に包まれ、長い歴史を今に伝えています。

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16. 真壁氏ゆかりの遍照院を訪ねて

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 隣接する遍照院に寄ってみましょう。正面から入るには高さ2メートルほどの石段を上がる必要があります。少したいへんですが、頑張って自転車を持ち上げてください。

 境内の右手奥の墓地には40基の五輪塔群が並んでいます。銘文などは風化して読み取れないようですが、造塔技法からみて、鎌倉時代から戦国時代にかけて造られたと推定され、真壁氏累代の墓碑群だと考えられています[15]。現在は茨城県指定文化財に指定されています。

 室町時代初期には、この地に仏石加工を専門とする石工集団が存在していたことがうかがえるとのことです[6]

 関ヶ原の戦いののち、江戸時代になるとすぐに、主君の佐竹義宜が出羽久保田(秋田)への転封を命じられたことに伴って、真壁家もこの地を去りました。こうして、平安時代末期からおよそ430年にわたる真壁氏の真壁地域支配は終焉を迎えたということです[15]

  

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17. 中世の真壁城跡

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 <上曽(うわそ)トンネルへ続く新しい県道7号線>  遍照院の裏手から砂利道を抜けると、県道7号線に出ます。ここからは下り坂が続きますが、スピードの出しすぎには十分注意して走行ください。坂を下りていくと新道との分岐点に出ますので、信号のある横断歩道を渡ります。

 つい最近になって、この交差点から上曽トンネルを通る新しい県道7号線が開通しました。これまでの県道は峠越えでカーブも多く、冬期には路面が凍結して通行止めになることもしばしばあったそうです。この新道は、地元の人たちが長年待ち望んでいたもので、これでようやく念願がかなったということです。 

 

 【寄り道:上曽トンネルと新しい観光スポット?】 コース外なのですが、もし体力に余裕があったら、ここから上曽トンネルの近くまで新道を登ってみましょう。標高約70メートルの交差点まで、およそ500メートルほどある登り坂ですが、無理のない範囲で挑戦してみてください。

 ただ、そこから眺める眺望は格別で、これまで走った真壁の町並みや台地のコースがすべて一望できます。もしかすると、将来、この場所は新しい観光スポットになるかもしれません。           

< 先日、再びこのルートを訪れた際、新道わきの工事現場にある土捨て場で、トンネル工事にともない排出された花こう岩が積まれているのに気付きました。工事中ですので近づくことはできませんが、道路から見るかぎり、均質で細粒の花こう岩で、いわゆる「真壁小目」に相当するものと思われます。岩石自体は新鮮ですが、周囲が丸く風化していることから、トンネル内部の掘削工事で排出したものではなく、おそらくトンネル入口付近の、地表近くにあった岩体(地質図では加波山花崗岩 (Ka₂))が取り除かれたものと推定されます。(2025.11.10 追記)>

 

 

 <真壁氏の居城・真壁城跡> コースは、新道との交差点から真壁体育館の方向へ進みます。県道41号線に出たらすぐに右折し、小高い墓地の脇を通って真壁城跡へ向かいます。

 城跡には見学ルートが整備されていますが、最近、イノシシ対策でフェンスが張られているようです。普段はフェンスの門が閉まっているかもしれませんが、開錠して中に入ることができます。場所によっては発掘調査などで立ち入り禁止になっている区域もありますので、掲示板の案内に従って見学しましょう。

 真壁城は、平安時代から江戸時代初期まで利用されたと伝えられています。現在残っている堀や土塁跡は、その最終時期の姿だそうですが、本丸を中心に、堀や土塁、土橋などが良く残っていて、中世城郭の構造を知るうえで学術的にも価値が高いことから、平成6年(1994年)に国指定史跡になりました。平成9年(1997年)から本格的な発掘調査が始められ、現在も調査が続けられています。それらの成果は展示会や現地見学会などで紹介され、桜川市役所のホームページでも最新の調査状況が公開されています[16]

 <山麓の地形を巧みに生かした築城> 真壁城の築城にあたっては、この場所の地形や地質を巧みに利用していることに気がつきます。

 ジオコラムの真壁城地形断面図を見るとよくわかりますが、東西約850メートル、南北約400メートルの広さがある城は、山麓から続く尾根の先端にある微高地上に築かれています。 微高地の北側は田中川で、南側は逆川の自然の障壁で隔離され、その間に張り出した、舌状の山麓斜面の地形の上に城が築かれています。このため、城内では、本丸に比べて、南東の曲輪や城外の戸張の方がひな壇状に高くなる構造になっています。そうすると南東の高台は防御上不利になるため、南東部の外曲輪には櫓が設けられ、周囲には深い堀と土塁を築いて備えたといいます[15]。 その姿は見学コースでもはっきりと確認できます。

 地質図地形分類図を見ると、この斜面は山地から流されてきた土砂(山麓斜面堆積物)でつくられていることが分かります(地質図では(sh)、地形分類図では(Ps))。

 このように中世の城郭構築にあたっての工夫がとてもよくわかる史跡です。

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18. 終点

 真壁城本丸を最後に、真壁体育館脇の坂道を下ると県道41号線です。古城交差点を右折すれば、終点の真壁休憩所はすぐ目の前です。

 お疲れさまでした。

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おわりに

 真壁の街にはこれまでも何度か訪れたことがありますが、今回、資料を手に歴史的建造物や文化財を見学することで、あらためて真壁の魅力を深く感じることができました。

 また今回は、これまでは車で通りすぎるばかりで、ゆっくりと巡ることのなかった桜川の西側、真壁台地をはじめて散策しました。台地のへりにひっそりとたたずむ八柱神社をはじめ、これまで知らなかった古代遺跡の場所や、豊かに広がる田園に出会うことができました。筑波山の山麓で、真壁の歴史を静かに見守ってきた、歴代の領主たちの歩みを肌で感じることもできました。

 もちろん、今回のコースだけでは、真壁のほんの一部を訪れたにすぎませんが、それでも、真壁の大地と人々の歴史の関わりについて、その一端に触れることができた素晴らしい機会になったと思っています。

 最近になって、真壁を横断する新県道7号線が開通し、真壁を訪れる人々の往来は今後さらに活発になることが期待されています。真壁は平坦で、自転車でもゆっくり巡りやすい地形です。これを機会に、「りんりんジオ散策」によって、真壁の大地とそこに暮らした人々の歴史に思いを巡らし、未来に向けての学びや何かヒントを得る一助になれは幸いです。

 本稿の内容には、誤りや誤解に基づく記述が含まれている可能性が多々あると思いますが、それらはすべて作成者の不勉強と理解不足によるものです。本ブログの作成にあたり、多くの皆さま、特に、散策の途中でお声をかけてくださった地域の皆さまから、ご協力とご助言をいただきました。この場をお借りして、心より感謝申し上げます。

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近隣のおすすめグルメ店、土産物店、コンビニ

  • ペンギン (レストラン)  桜川市真壁町塙世  560-1   tel : 0296-54-1193

  • 手作りキッチン&カフェ ママごはん (レストラン)  桜川市真壁町飯塚  1027-1                                                                 tel : 0296-48-9009
  • そば処にしむら (蕎麦店) 桜川市真壁町山尾  765-2  tel : 0296-54-0865
  • 丸三そば(蕎麦店) 桜川市真壁町山尾  272-7  tel : 0296-55-0040
  • つくばぷりん ふじ屋 (お菓子) 桜川市真壁町飯塚  113-1  tel : 0296-54-2401
  • さわやか直売所(農産物) 桜川市真壁町山尾 734-4  tel : 0296-55-3845
  • 村井醸造株式会社(日本酒) 桜川市真壁町真壁72 tel : 0296-55-0005                                                                     http://www.komei.co.jp/index.htm
  • 株式会社西岡本店(日本酒) 茨城県桜川市真壁町田6-1 tel : 0296-54-1310                                                          http://www.khananoi.jp/
  • TAIRAYA真壁店(スーパー) 桜川市真壁町飯塚994 tel : 0296-23-8585

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【参考資料】 

本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1]  真壁伝承館歴史資料館 (2018)「追憶の筑波鉄道~鉄道から自転車道へ~」

[2]  ディスカバーまかべ発行 ディスカバーまかべ いらすとMAP

[3] 真壁町歴史民俗資料館編(2002)江戸時代の真壁 ふるさと真壁文庫No.4

[4]  真壁祇園祭 | 桜川市観光協会公式ホームページ

[5]  真壁町歴史民俗資料館編(1992)教育のあゆみ、 第50回企画展資料

[6]  真壁町歴史民俗資料館編(1996)石と暮らし―真壁物語ー、 第62回企画展資料

[7]   真壁町歴史民俗資料館編(1994)真壁町の社寺装彫刻:江戸時代の建造物を中心に

[8] 土地分類基本調査(1992)「真岡・壬生」地形分類図

   この地域の図面は【ジオコラム】を参照

[9]  真壁石材協同組合 – 【公式】茨城県の真壁石のことならお任せください

    (2025.10.25参照)

[10  杉原 薫 (2025]  IUGS Heritage Stonesと『筑波山塊の花崗岩』、GSJ地質ニュース、          vol.12, 237-246

[11]  霞ヶ浦用水事業について/茨城県

    (2025.10.25参照)

[12] 真壁町史編さん委員会編(1994)真壁町史料,考古資料編3(古代寺院遺跡)

[13]  真壁町歴史民俗資料館編(2004)土の妙味 真壁のやきもの―16世紀から現代までー、 第89回企画展資料

[14] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

         https://ktgis.net/kjmapw/  (2025.10.25参照)

[15] 真壁町歴史民俗資料館編(1998)中世の真壁氏 ふるさと真壁文庫No.1

[16] 発掘調査の成果について | 桜川市公式ホームページ

        真壁城跡発掘日誌 | 桜川市公式ホームページ

    (2025.10.25参照)

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【ジオコラム】

 

観光マップ



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旧筑波鉄道と真壁駅   

 

 

 【出典」 真壁伝承館歴史資料館 (2018) 追憶の筑波鉄道~鉄道から自転車道へ~

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明治の教科書

   【出典】真壁町歴史民俗資料館編(1992)教育のあゆみ

       ー初等教育を中心にー、第50回企画展資料

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関東ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

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更新世(こうしんせい) :地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

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上位段丘・中位段丘・下位段丘: 真壁地域のコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは、地盤の上昇と地球規模の気候変動による海面の低下により生じた河川の浸食作用できた段丘です。

 一般に、段丘は標高の違いによってん、高い方から上位段丘、中位段丘、下位段丘に区分されています。上位段丘は本コースの周辺には分布していません。中位段丘は、このあたりでは標高が約40から30メートル、下位段丘は標高が約30メートルから桜川の河床の少し高いくらいの高さに分布しています。

 この辺りでは中位段丘と下位段丘とは明瞭な段丘崖で境していることはあまりなく、緩やかな斜面地形で移行していくことが多いように見えます。

 なお、このあたりでは見られない上位段丘は海の堆積物からできています。中位段丘と下位段丘は河川の堆積物で出来ています。

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地質図

  5万分の1地質図幅「真壁」を基図にルートを加筆

【地質図の記号説明】 

Ts1,Ts2:筑波花崗岩、Ka1,Ka2:加波山花崗岩、sh:高位山麓斜面堆積物、sl:低位山麓斜面堆積物、Jo:常総層・中位段丘堆積物、tl:低位段丘堆積物*、 a:沖積層

           *地形分類図で下位段丘とされているものに相当

 【基図の出典】:

  宮崎一博・笹田政克・吉岡敏和(1996)真壁地域の地質.地域地質研究報告

     ( 5 万分の1 地質図幅),地質調査所,103p.

  https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#15,36.27363,140.09805 (2025.10.25参照)

<解説> 地質図では、筑波山塊を構成する花こう岩をその特性(岩相、貫入の時代など)によっていくつかの岩体に区分しています。いわゆる「真壁石」はこのうちの加波山花崗岩 (Ka1, Ka2) に含まれ、筑波花崗岩 (Ts1, Ts2) とは区別されています。
 今から約13万年前~12万年前まで、地球が比較的温暖だった時代(間氷期)、この地域は内湾でした。当時の海は「古東京湾」と呼ばれています。海があった痕跡は、つくば市平沢や桜川市岩瀬(長方)など髄所で見ることができます(本コース周辺では分布していません)。
 その後、氷期にはいり、地球が徐々に寒冷化するにつれて海面の高度は低下していき、古東京湾の海底は干上がって広く平坦な平野が出現しました。この平野を流れていた河川の堆積物が常総層・中位段丘堆積物 (Jo)です。真壁台地のほか、筑波台地や新土浦市の新治台地にも広く分布しています。なお、古東京湾の海底に堆積した地層の堆積面はこのとき段丘化し、当時の河床面より一段高い段丘(上位段丘)を作りました(本コース周辺では分布していません)。
 その後、さらに寒冷化が進み海面が段階的に低下するにつれ、河床面も低下して行き、平野にはつぎつぎと河岸段丘が形成されました。まず常総層の堆積面が中位段丘 (Mt) となり真壁台地ができました。さらに桜川周辺や観音川の西側には下位段丘 (Lt) ができ、低位段丘堆積物 (tl) が堆積しました。
 なお、真壁城址でみた高位山麓斜面堆積物 (sh) は、加波山などの筑波山塊の花こう岩が土石流となって谷を流れてきた堆積物です。堆積物の表面に赤城鹿沼軽石層  (Ag-Kp, 4.2~4.9万年前)を挟む風化ローム層が載っている場合と載っていない場合があり、前者は高位山麓斜面堆積物  (sh) 、後者は低位山麓斜面堆積物  (sl) に区分されています。
  【参考文献】上記、基図の出典と同じ

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地形分類図

5万分の1都道府県土地分類基本調査「真壁」の地形分類図を基図に本コースのルートを加筆した

【地形分類図の記号説明】

M:山地(起伏量100m以上)、Hp:丘陵(起伏量100m以下)、Ps :山麓緩斜面、

Mt:中位段丘(中位砂礫侵食段丘群)、Lt:下位段丘(砂礫侵食段丘群)、S:斜面、

P:谷底平野と後背湿地

【出典】 

   5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)「地形分類図」(1981)

https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg

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霞ケ浦用水のしくみ

【出展】独立行政法人水資源機構 「霞ケ浦用水 イラストマップ

   https://www.water.go.jp/kanto/kasumiy/p01_4.html

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農村の疲弊

 江戸時代後期には度重なる天災によって農村は飢饉に見舞われ、深刻な疲弊を招きました。下の図は、当時の村々の人口の推移を示したものです、この時期に人口が大きく減少しており、特に川外の村(矢貝村・下谷貝村)では、その後も人口が半減したまま回復しなヵったことが分かります。

    

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源法寺焼の「原土」

 源法寺の周辺では、植木鉢のほかにも土管や陶官、水甕(みずがめ)、米壺、菊鉢などが多数つくられたそうです。

       

 真壁町歴史民俗資料館の資料「土の妙味」には、源法寺焼を作った原土(原料となる粘土)について、当時の職人の方にインタビューした記事が載っています。

 (源法寺のTさん)

 「原土は、桜川の源法寺橋の近くの田んぼにあさぎ色のいい粘土が出ました。4尺の上土(うわつち)を取り、その下3尺くらいの白色(かば色)の粘土を取りました。土取りは唐鋤を用い、桜川付近では水がたまるので水をくみ山しながら取りました。土取は土取り専門の人がいましたが、堀り上げた土は少し乾かし、むしろを2つ折にしたモッコにのせて運び出し、馬車、荷車で積み出しました」(赤字はあとでつけたもの)

 このように、粘土は、水田の標高から1-2メートルくらいある崖から、表土を1メートルくらい除いたあと、その下にある厚さ約1メートルの地層から採取されたと想像されます。実際に現地で確かめないと分かりませんが、もしかして、この粘土層は低位段丘の地層の一部かもしれません。

【写真とインタビュー記事の出典】真壁町歴史民俗資料館編(2004)土の妙味 真壁のやきもの―16世紀から現代までー、 第89回企画展資料[13]

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源法寺ふきんの「今昔マップ」

 現在の源法寺橋は約100メートル下流に移動しました。そのほかに県道7号線や、県道131号線も大きく変わっていることがわかります。

      (1928-1945年の地理院地図 )                           (現在の地理院地図)

【出典】 谷 賢二「今昔マップ on the web」

                      https://ktgis.net/kjmapw/  (2025.10.25参照)

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真壁城地形断面図

【出典】基図(カシミール3D・地理院地図)の上にルートを加筆。

    断面図は地理院地図から作成した。

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最終更新

最終更新 (2025.11.17) の内容

 1.「段採図」を追記

 2.「地質の解説」を追記

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5. 桜川河口の街・土浦 ~水の恵みと災害の歴史

              (初回公開日:2024.12.11、最終更新日:2024.12.20) 

コースあらすじ   

 今回は「つくば・りんりんロード」の南の終着、旧筑波鉄道の始発駅があった土浦の市内を散策します。

         

 土浦は、霞ケ浦にそそぐ桜川の河口に開けたまちで、これまで見てきた桜川の上流や中流地域とは景色が一変します。水田や蓮田がひろがる桜川沿いの広い低地と、標高が20メートル以上もある南北の台地は、それぞれどのようにしてできたのでしょうか。古より交通の要衝、行政の中心地として、水に恵まれ水とともに栄えてきたこの町は、一方で水の災害にも悩まされてきました。このコースでは水と深い関わりがある土浦の歴史を散策します。

 コースはまず城下町のたたずまいを残す中心市街地から出発、旧街道沿いに南に進んで桜川と筑波台地に向かいます。台地上の上高津貝塚遺跡では縄文時代の人々の暮らしを想像しながら、里山の自然を残す宍塚大池を散策。ふたたび桜川の低地を横断して、縄文海進の最奥部と考えられている上坂田を訪れます。そこから、こんどは北側の新治台地に上り、台地のでき方を示す地層や古墳を訪ねます。あとは「つくば・りんりんロード」をとおって起点の亀城公園に戻ります。途中で自然災害伝承の記念碑を訪れ、災害の歴史も訪ねてみましょう。

コースデータ

 コースは距離的にはやや長めですが、台地への上り下り以外ほとんどが平坦ですので走行は楽だと思います。坂道は自転車を押して歩くなど、無理をせずに進みます。途中、宍塚の森では砂利道を走ります。

 できるだけ交通量の少ないコースを選びましたが、なんといっても街中ですので車や歩行者には十分気を付けてください。体力や当日の都合、ご自身の興味によって適宜コースを省略して、くれぐれも自己責任で巡ることをお勧めします。

  • 起点:土浦市観光協会の拠点「まちかど蔵・大徳」
  • 終点:起点にもどります
  • 走行距離:約18 km、高度差:約27 m 
  • 所要時間:約4-5時間(走行時間は約2時間30分  )

コースマップと高低差

                                                                                           <地理院地図より作成>

 

<起点からの距離と高低差>

                                                                                                <地理院地図より作成>

 

<コースの詳細マップ>

   <Google Map> 現在地やコース周辺の地図を拡大・縮小して見ることができます。近隣の観光地やレストランなどの情報もわかります。

 

   <地理院地図> 拡大・縮小して、みたい場所の地形を詳しく見ることができます。地図の右下のスター・アイコンをクリックすると、今いる場所が地図の中心(+)に表示されます。場所がわからなくなったときはまず現在地を確認しましょう。地図をスクロールして、知りたい場所を地図の中心(+)に合わせば、その場所の標高が地図の左下の矢印に示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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レンタサイクルの利用について

 起点の土浦市観光協会案内所「まちかど蔵・大徳」では、免許証などを提示してレンタサイクルを貸リることができます。いろいろな種類の自転車がありますが、シティーサイクルなら1日1000円(ヘルメット付)です。

 「まちかど蔵・大徳」まで、JR土浦駅西口からは徒歩12分です。車なら利用者用の駐車場に駐車できます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

 土浦市レンタサイクルのご案内 | 土浦市観光協会

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おもな見どころ

1.   起点「まちかど蔵・大徳」

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 <江戸時代の呉服店「大徳」から出発> スタートは土浦城がある亀城公園のすぐ南、中条通りの「まちかど蔵・大徳」です。今は土浦市観光協会の案内拠点になっていますが、もとは江戸時代の呉服店だそうです。店内では観光パンフレットのほか土産物なども販売していますが、ここにレンタサイクルの受付があります。

 まちかど蔵の2階には呉服店「大徳」の由来や古い町並みの写真、古民具などが展示されています。また受付の2階には、昔のままの大店の雰囲気を味わえるお座敷も公開されています。大変興味深いですが、帰りがけにでもゆっくり見学することにします。

 準備ができたら、さあ出発です。 

  <城下町の面影を残す中城通り> 中城通りは江戸時代には大名行列などでにぎわった旧水戸街道で、いまでも城下町の風情を楽しむことができます。「大徳」の隣には県指定建造物土蔵造りの商家「矢口屋住宅」や古い蕎麦屋「吾妻庵」など、江戸時代の城下町の名残りが並んでいます。観光パンフレット「土浦古絵図」などと見くらべて走るとさらに面白いです。

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2.等覚寺(とうかくじ)・東光寺(とうこうじ)

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  <堀と土塁で囲まれた城郭の特徴> 城を中心とした城下町のうちでも、堀や土塁、塀でかこまれた中心区域を城郭といいます。この城郭の内側では外敵に対応する様々な工夫がされています。道路が鍵型に曲がって、よそから来たものには先が見通せなくなっているのもその一つです。中城通りをしばらく進むと、このような曲がり角がいくつかあります。

 この角に等覚寺と東光寺があります。まずは等覚寺に寄ってみます。

 <常陸3古鍾の一つ> 境内の鐘楼に国指定文化財の銅鐘(極楽寺鍾)が下がっています。鎌倉時代の建永年間に八田知家(はったともいえ)がつくらせたといわれ、もともとはつくば市小田の極楽寺(今は廃寺)にあったものです。その後、藤沢城、土浦城を経て、明治時代になって当地に移されたと伝えられています。このあと訪れる宍塚の般若寺(はんにゃじ)の鐘とともに、常陸3古鍾の一つとされています[8]

 隣にある東光寺も古いお寺で、江戸時代、慶長12年(1607年)の創建とされています。境内にある瑠璃光殿(るりこうでん)は江戸時代中期の御堂建築の遺構で、意匠的にも優れていることから土浦市指定文化財になっています。

       

 <城郭を囲む土塁の跡> 境内の奥にある墓地のすみには城郭を囲んでいた土塁の跡があり、土浦市指定の史跡になっています。奥の方で見つけにくいですが、標識が建っているのでわかります。          

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3.桜の名所-桜川・銭亀橋

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 <桜川低地の水の流れをたくみに利用> 街道にもどり高架道路下の信号を渡ってさらに南へ進みますが、この辺りに先ほどの土塁につながる城郭の「南門」がありました。信号の脇に石碑が建っています。

 土浦城郭図をみると、城郭の外には「上沼」や「下沼」といった大きな池があり、これとつながる堀や水路が縦横にめぐらされていました。現在はその痕跡さえ見つけることは困難ですが、桜川低地の水の流れをたくみに利用していたことがわかります[5]

 <南の守りの銭亀橋と桜川> 南門の外も、街道沿いには町屋がつずいていたようですが、いまはほとんど面影はありません。城郭の外の街道はまっすぐのびて、桜川にかかる銭亀橋に出ます。銭亀橋は江戸から土浦城下に入る最初の固めになるわけですが、最初につくられたのは江戸時代初期の慶長18年(1613年)だそうです。このように、桜川が最も重要な土浦の南の防衛線になっていたことがわかります。

 

 <静かな桜川の流れと桜川堤の桜> 霞ケ浦にそそぐ桜川の河口はここから2.5キロメートルほど下流ですが、このあたりではもう流れはほとんどありません。時折、小さな釣り船や観光ボートが静かな流れを遮って波を立てていきます。今までめぐってきた桜川の上流や中流の流れとは一変した、ゆるやかな桜川の姿も目に焼き付きます。

 写真は春に撮った桜川堤の桜並木です。土浦一番の観光スポットで、この季節は大勢の人でにぎわいます。桜川堤は明治時代に植樹してつくられたそうですが、今では数百本のソメイヨシノが見事な並木を作っています。   

 銭亀橋を渡りすぐ右折、堤防の道を北へ進みます。堤防から見る筑波山はまた格別で、絶好な写真スポットです。この道路は細いわりに結構車が通りますので気を付けて走ります。特に、複数台の車に追い越されるときには細心の注意が必要です。 

      

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4. 備前川・上備前川

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 <桜川の治水対策、巨大な水門> 桜川の堤防と並行してすぐ南に備前川が流れています。しばらく進むと排水機場がある大きな水門が見えてきますが、これは備前川の上流の上備前川の水門です。ちょうど出会った水門管理の方に聞くと、備前川や上備前川には桜川につながる水門がいくつかあり、大雨などで桜川の水位が上がると閉じて低地への浸水を防いでいるとのこと。ことしはまだ、検査の時以外に閉じたことはないそうです。

   桜川の周辺は昔から洪水で悩まされてきました。いまでもこの辺りから上流の藤沢までは、市内でもっとも浸水危険度の高い地域です。土浦市が発行している 洪水ハザードマップをみると、5メートルから10メートルの 浸水が予想されています。

 ちなみに、コースからは外れますが、下流の備前川が霞ケ浦にそそぐ河口にも大きな備前川水門があります。桜川にはこのような水門はありません。

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5.上高津貝塚ふるさと歴史の広場

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 <桜川低地とは20メートルも高さが違う別の世界、筑波台地> 土浦バイパスの下を通り抜けると、右に土浦タクシーの営業所があります。そのすぐ先の丁字路を左折し、水田の中の直線道路を南へまっすぐ高台に向かいます。広々とした水田が広がりますが、このあたりの標高は3メートル以下です。

 かどにホテルのある十字路を右折してすぐまた左折など細かなルートが続きますが、マップを見ながら進んでください。このあたりから急な登り坂になりますので、自転車を押して歩きます。

 この高台は筑波台地とよばれ、道路は台地を刻む谷に沿って上がっていきます。途中、ひな壇のようにさまざまな高さに住宅が建っています。一番高いところで標高がおよそ25メートルありますから、さっき通った桜川低地より20メートル以上高いことがわかります。台地の頂部はほぼ平坦ですがそれほど広くはなく、小さな丘陵といった感じです。このように、今まで見てきた桜川低地とは別世界のように景色が一変します。

 <筑波台地のでき方> 地形分類図では、この辺りの筑波台地を「上位台地」と分類し、今から13万-12万年前に、このあたりまで海が侵入したときに海底にたまった地層でできた海成台地としています。なお、地質図ではそれとは違い、筑波台地全体が、今から10万年前ころの河川の堆積物でできた河成段丘で「中位段丘」だとしています。海成か河成か、できた時代も違うので気になりますが、いつか機会があったら実際に台地の地層を見てみたいと思います。詳しくはジオコラムをご覧ください。

 <縄文時代の人たちのムラのあと> 台地の最も高いところに「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」があります。小さな広場があって、復元された縄文時代の竪穴式住居と貝塚の断面が展示されています。

 この広場は、今から約4000年前から3000年前頃の縄文時代後期の人たちが暮らしていたムラのあとです。貝塚は関東地方でも有数の大規模なことから国指定史跡となっています。出土する貝はほとんどがヤマトシジミということで、当時この辺りは海に面した河口で、淡水と海水が混ざる汽水環境だったと考えられています[8]。縄文の人たちも、先ほど登ってきた谷筋の道に沿って重い貝を担いできたのでしょうか。



 となりの考古資料館には、縄文人たちがこの場所で塩づくりや貝を加工し、他の地域とも交易していたらしいことを示す出土品が多数展示されています。詳しく見れば短時間では済まないので、またあらためて見学することにして先に進みます。

 なお、資料館の玄関前には、筑波山地域ジオパークの解説看板がありますので、ぜひご覧ください。

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6.縄文の森と宍塚大池

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 資料館をあとに、県道123号をつくば方面に400メートルほど走ると、コンビニの角の信号につきます。そこを右折して細い道を進むと、やがて林の中の砂利道になります。車も通らないこの小道は通称「鎌倉街道」というそうで、その昔「いざ鎌倉!」という時には幕府の御家人などが通った重要なルートだったようです[4]

 <縄文人はこんな森で生活していた?> クヌギやコナラなどが茂る自然豊かなこのあたりは、通称「縄文の森」と呼ばれています。比較的温暖だった縄文時代もこのような森だったのでしょうか。ただ近年はカシナガなどの害虫によるナラ枯れ被害が広がっているようで、「宍塚の自然と歴史の会」などのNPO団体を中心に、実態の調査や保全の活動が行われていました。

 <静かにたたずむ大池と谷津のゆたかな自然> 少し進むと「宍塚大池」の看板があります。そこを左折すると目の前に大きな池が現れます。もともとは谷津が合流するあたりにできた自然の沼を、その後、堰を築いて農業用の溜池にしたものだと思われます。春に訪れたときは堰の桜が満開でした。夏になると湖面にはヒシが広がるのだそうです。 

 堰の下流には田んぼが続きます。この自然ゆたかな里山には様々な昆虫や植物が生息しているようですが、中には絶滅の危機にある種もあるそうです。先ほどのNPO団体では、ずいぶん前から、このような自然の観察や保護の活動を行ってきたそうです。堰のポストにあった団体のニュースを見ると、地元の市民や子供たち、学生さんたちが集まって、いまも活発に活動がつずいている様子がうかがえます[9]

 田んぼわきの小川沿いの道は自転車を押して進みます。道にはローム層が露出していて滑りやすいので気を付けて進みます。

 <宍塚大池のできかた> 桜川から離れた山の中にどうしてこのように大きな池ができたのでしょうか。上流は台地で川もないのに、この水はどこから来るのでしょうか。

 地質図と断面図 (E) をみると、このあたりの谷津の上流、標高10数メートルの谷頭には木下層(きおろしそう、Ki)と呼ばれる厚い砂層が分布しています。このような砂層の下に水を通しにくい泥層があるところでは、しばしば地下水がたまり、流れ出す湧水があります。実際に露頭で見たわけではありませんが、大池の水もこのようにして出ていると思われます。

 谷津や池はおよそ2-3万年前にはすでにできていたと推定され、このあたりの自然は、いまも当時にちかい姿で残されている貴重な環境遺産だと考えられています[10]

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7.般若寺(はんにゃじ)

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 <鎌倉街道にたたずむ古刹、般若寺> 宍塚大池を出て土浦学園線の信号を横断すると、古民家が続く古い宍塚の集落に続きます。この道が「鎌倉街道」だったのでしょうか。まもなく正面に般若寺の山門が見えてきます。

 <平安時代に創建された古刹> 寺伝によれば、般若寺は天暦(てんりゃく)元年(947年)に創建された古刹で、当時は宍塚の台地の上にあったものが、のちに鎌倉街道筋のこの地に移されたそうです。本堂にある木像釈迦如来像や石造五輪塔、結界石(けっかいせき)は県の指定文化財になっています。また鎌倉時代の建治元年(1275年)につくられたという銅鍾は国指定重要文化財で、前にみた等覚寺の銅鍾とともに、常陸3古鍾の一つとされています[8]

 <低地の中の台地に開けた古い集落> 宍塚の集落は標高がおよそ5メートルほどで、桜川低地の水田よりわずかに高い台地になっています。地形分類図では洪積世の下位段丘に区分されていて、およそ2万年から3万年前に流れていた河川の堆積物でできた台地です。近くにある飯田の集落も、同じく下位段丘の上に開けました。なお、地質図では桜川段丘堆積物 (Tg) と示されています。

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8.柴沼醤油醸造所

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 般若寺を出て旧道を東に500メートルほど進み、斜めに左折して桜川堤防に向かいます。桜川にかかる水神橋(すいじんばし)から望む筑波山の姿もまた絶景です。

 堤防のすぐ下に柴沼醤油醸造所と書いたビルが見えます。近ずくと赤い郵便ポストがある黒門があり、古い事務所のような建物があります。脇には三十石はあるでしょうか、巨大な醤油樽が置いてありました。以前は醸造所の中を見学できたようですが、コロナ禍のころから中断しているそうです。

 <江戸時代から続く土浦の醤油産業> 柴沼醤油醸造所は創業が元禄元年(1688年)という古い醤油店で、土浦では唯一、今でもここ虫掛で醤油を生産しています。明治時代には土浦で最大の石高を誇ったそうです[11]

 もともと土浦には亀甲の商標で知られた多くの醤油醸造所がありました。霞ケ浦から利根川を経由して江戸につながる水運を利用してたいそう繁盛したそうですが、明治以降になると、銚子や野田の醤油産業に押されて衰退し、その後は主に土浦周辺を対象にした「地もの」を生産するようになっていったようです[11]

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9.つくば・りんりんロード「虫掛休憩所」

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 <まるでジオラマのようなつくば・りんりんロード> 醸造所の前から、今は蓋がされている水路に沿って虫掛集落の旧道を進むと虫掛神社があります。集落を抜けて県道199号線を横切り、つくば・りんりんロード「虫掛休憩所」に向かいます。

 休憩所は旧筑波鉄道の土浦から数えて2つ目の「虫掛駅」に設けられたもので、いまでもむかしのホームが残されています。駐車場やトイレ、ベンチ、電動空気ポンプがありますので一息入れましょう。

 水田と蓮田の中をまっすぐに通るこのあたりのりんりんロードは、本当に見晴らしも良く、まるでジオラマ模型の中にいるような景色です。サイクリストにとっては最高のコースでしょうね。

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10.坂田駅跡、縄文時代の海

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 <最後にできた坂田駅のあと> りんりんロードをおよそ2キロメートルほど北へ走ると、右手に小高い丘が見えてきます。ここが土浦から3つ目の「坂田駅」があったところです。全部で11ある駅のうちで最後にできた駅だそうですが、いまは駅舎もホームの跡もありません。

 ここでりんりんロードを離れ、並行して走る県道・小野土浦線に出ると、道路わきに坂田駅のホームにあった「駅名標」が立っていました。ホームから移設され、きれいに塗装しなおされたもののようです。駅舎があったところは今は園芸店とカフェになっています。隣にはサイクルステーションもあり、このあたりのむかしの情報をいろいろと教えてもらうことができました。         

 <温暖な縄文時代にはこの辺りまで海があった> 上高津貝塚があった縄文時代後期より前の時代、今からおよそ7000年前-5000年前頃は気候がいまよりやや温暖だったことが知られています。海面も今より3メートルほど高く、当時の海岸線は現在よりずっと内陸まで侵入していました。いわゆる 「縄文海進」です[12]

 地形図を標高ごとに色分けした 段採図を見ると、このあたりの水田の標高はおよそ3‐4メートルです。もしかしてそのころ、この辺りは海だったのでしょうか。           

        

 「上高津ふるさと歴史の広場」の考古資料館には、この近くの下坂田貝塚から出土したハイガイの化石が展示されていました。この貝は、現在は紀伊半島より南の温暖な海に生息する亜熱帯種です。これらから、縄文海進の時代には、この辺りは侵入した海の最奥部にあったと考えられていて、この海は 「古鬼怒湾」(こきぬわん)と呼ばれています[13]

 道路を走っていても、何か海を示す証拠は見当たりませんが、昔の海岸線を想像しながら散策するのもまた興味深いですね。          

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11.新治台地をつくった10万年前の川の痕跡

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 県道を北へ300メートルほど走ると、新治台地へ上がる丁字路があります。台地へ上る坂道は急ですので、自転車を降りて歩いて進むと良いでしょう。

 <10万年前の川に堆積した地層> 坂の途中、道がカーブするあたりに大きな崖があり、竹藪の陰に地層が見えます。よく見ると、一番上には草木の根の下にローム層(赤土)があり、その下には厚さ70センチメートルほどの白っぽい砂層があります。さらにその下にも砂層や植物の根の化石があるシルト層が堆積しています。

 地質図や断面図 (E) を見ると、この地層は今からおよそ10万年前頃の川の氾濫原の堆積物で常総層 (Jo) と呼ばれ、新治台地に広く分布しています。地形分類図では、この台地は河成段丘の中位段丘に分類されています。

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12.武者塚古墳(むしゃづかこふん)、平坦な新治台地に広がる古墳群

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 台地に上ってすぐに右折、畑の中の草道を200メートルくらい進むと目の前に武者塚古墳の施設が現れます。季節によっては草などが繁り、チェーンや変速機などに絡まることがありましたので、自転車をおりて進むことをお勧めします。(なお、あとで気が付いたのですが、もしかしてこの草道は私道なのかもしれないと気になりました。確認はしていないのですが、心配の場合は少し遠回りして、車の通る舗装道を進むほうが良いかもしれません。)

 <畑を耕していて見つかった石室古墳> 古墳の施設の中には1983年の調査で発掘された石室があり、市の重要文化財に指定されています。地元の農家の方に聞くと、畑を耕していると、ぼこぼこと空洞があるような音がして、「何かあるぞ」といわれていたところだそうです。

 <古代人の髪形まで出土した貴重な遺跡> 解説看板によれば、発掘した当時は畑でしたが、もともとは墳丘があったと想定されているそうです。遺跡は古墳時代終末期(7世紀)の方形石室で、石室から6つの遺体と古代人の髪形に結われた毛髪のほか、玉類や金具、太刀など多数の出土品があり、国の重要文化財に指定されています[14]

 2022年に40年ぶりに再発掘調査が行われました。そのとき新たに発見された周溝などから、これまで想定されていた円墳ではなく、一辺が23メートルの方墳であることが明らかになりました[14]

 <台地のへりは古墳だらけ> すぐ近くの坂田塙台(さかたはなわだい)古墳群など、このあたりには多数の古墳群があります。北に筑波山や宝篋山を遠望し、南に桜川低地を見下ろせる新治台地の南のへりは本当に平坦で見晴らしがよく、古墳時代の人々にとっても特別の場所だったようです。延々と広がる秋の蕎麦畑は実に見事でした。

 <筑波台地の北縁とは違う新治台地の特徴> この辺りの新治台地が河成段丘であることは先ほど露頭を見てきました。当時の河川の氾濫原の地形を反映して、台地表面はほとんど平坦です。これと比べて、高津や宍塚の筑波台地は、かなり凹凸のある地形をしていました。自転車で走るとその違いがよくわかるような気がします。

 それぞれで、地形のできた時代に違いがあるのか、それとも何かほかの原因があるのか。走りながら不思議に思いましたが、別の機会にあらためて調べてみたいと思います。

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13.常名神社(ひたなじんじゃ)・常名天神山古墳(ひたなてんじんやまこふん)

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 台地を降りて再び県道を土浦方向に走ります。常磐自動車道の下をぬけ、500メートルほど進むと常名町(ひたなちょう)の集落を通る旧道があります。旧道を500メートルほど進むと村社常名神社(ひたなじんじゃ)と書いた石碑があり、その先に鳥居と石段があります。目立たないので、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

 <古墳の上にあった常名神社> 石段の先には常名神社がありました。しかしつい最近、2023年5月の火災で神社は焼失したそうで、今は焼け跡となっています。

 神社は常名天神山古墳(ひたなてんじんやまこふん)といわれる古墳の上に建っていました。5世紀初頭頃に築造された、長さ90メートルほどもあったとされる前方後円墳でした。神社は後円墳の上にありましたが、前方墳の方には安土桃山時代に作られたと伝えられる石造宝篋印塔があります                                         

 <近くの遺跡からは旧石器も出土していた> 常名天神山古墳の周辺にもたくさんの 古墳群がありました。すぐ北側にある山川古墳群からは、後期旧石器時代の台形様石器が炉跡から見つかりました。炭化物の年代測定の結果では、約3万年前の炉跡だそうです[8],[20]。3万年前といえば昔の鬼怒川が桜川に流れていた、あるいは流路が西に変遷した時代です。旧石器時代の人たちが、桜川の歴史や氷河時代を体験していたとは驚きです。   

        

           台形様(だいけいよう)石器

          (長さ16.1㎜,幅13.8mm, 厚さ4.9mm)

           後期旧石器時代 山川古墳群出土

           上高津貝塚ふるさと歴史の広場所蔵

 【出典】ハンドブック    土浦”モノ”語り —資料が語る土浦の歴史ー,[8]

          

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14.田中の八幡神社と大洪水記念碑

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 常名の集落を後に、ふたたび県道を土浦方向に向かい、50メートルほど行ってすぐ右折、水田の中の農道を直進します。国道6号をくぐって、ふたたびりんりんロードに戻り、土浦方向に向かいます。約1キロメートルほど走ると市民会館通りと交差しますので横断、すぐに右折します。かどにある「税理法人 共同会計」というビルが目印です。市街地をまっすぐ南へ500メートルほど進むと田中の八幡神社の木立が見えてきます。

 <土浦の西の鎮守様> 田中の八幡神社は、土浦の西の鎮守様として古くからあがめられてきました。一説によれば、土浦の中心地では最古の神社だそうで、鎌倉時代に、当時の鎌倉街道沿いの一里塚に創建されたそうです。宍塚で通った鎌倉街道はここにつながっていたのですね。

 

 <境内にある自然災害伝承の碑> 本殿の左手に立つ大木の根元を見ると、「大洪水記念碑」と刻まれた大きな石が石垣のようにひっそりと立っていました。実ははじめてきたときにはいくらさがしても見つからないので、ちょうど出会ったご近所の人に尋ねてようやくめぐり逢いました。
 昭和13年(1938年)6月に発生した「昭和13年洪水」を後世の人々に伝えるために建てられた碑です。記録によれば、その年の梅雨前線の大雨で大洪水が発生し、神社境内では約2.4メートル浸水、市内の死者行方不明者は6名、多数の倒壊・流失家屋や浸水家屋の被害が発生したとのこと。さらに帯水は23日間におよび、赤痢や疫痢の被害が発生したそうです(国土地理院 自然災害伝承碑より)。

 地質図地形分類図を見ると、集落や神社の境内は自然堤防の上にあって、水田より少し高いのですが、それでも標高1.5メートルほどです。土浦市の洪水ハザードマップでは、最大3-5メートルの浸水が想定されています。このような歴史の記録が後世に伝えられることが期待されます。

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15.神龍寺・郁文館

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 広い八幡通りを土浦第二高校の方向に750メートルほど進み、校門前の信号で横断、住宅地の中を南東に進みます。少しずれた十字路をさらに進むと右手に「西門」跡の碑が、そして神龍寺の門があります。

 <城郭の西の出入り口> 土浦古絵図を見ると、江戸時代には土浦の城郭を囲むように土塁が築かれていて、その外には上沼につながる堀がめぐらされていました。西門は田中口とも呼ばれ、城郭へ入る西の出入り口になっていたわけです。
 <神龍寺、藩主土屋家の菩提寺> 神龍寺は天文元年(1532年)に土浦城の城主菅谷勝貞による開祖とされていますが、江戸時代には土浦藩の藩主、土屋家の菩提寺となりました。現在の本堂は平成23年に再建したものです。文化財として絹本普賢菩薩像(茨城県指定文化財 )や旧本堂天井の雲龍図(土浦市指定文化財 )などがあります[2]

 <色川家といえば醤油と堤防> 境内には薬種業や醤油醸造で財をなした色川三中(いろかわみなか)など色川家歴代の墓があり、市の史跡に指定されています。

 色川家といえば、三中の子の色川三郎兵衛は土浦の洪水防止に尽力した明治時代の政治家として知られています。もともと土浦第二高校のあたりに通す計画だった常磐線を、計画を変更して城の東に通すようにして鉄道路線を堤防替わりとし、さらに川口閘門を作る運動を進めたと伝えられています。神龍寺の境内にその功績をたたえる顕彰碑があったのですが、現在は銅像とともに川口運動公園先に移されています[15]

 <市内にはいたるところに歴史遺産が> 神龍寺の門に戻り、南に進むと交差点の角に土浦藩の藩校だった郁文館の正門が移転され保存されています(土浦市指定文化財)。寛政11年(1799年)に創立され、土浦藩の庇護のもと、文武両道を旨として剣豪をはじめ多くの文人や学者、政治家を輩出したそうです[4]。           

      

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16.土浦市立博物館・土浦城・土浦小学校

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 国道125号に出たところには横断歩道がないので、狭い歩道を土浦城の方へ進み、博物館の手前で横断します。

                     

 <土浦の歴史を”もの”で伝える博物館> 博物館では数々の資料が模型なども使って分かりやすく展示されています。つい最近も「土浦”モノ”語り」と題した企画展示が開かれ、カラー刷りのハンドブックが手ごろな値段で販売されていました[8]。ざっと見ても小一時間はかかりますので、ぜひ機会をあらためてゆっくり観覧すると良いと思います。

 お濠を渡ると亀城公園です。季節を問わず美しく、気持ちを和ませてくれる憩いの場です。博物館とともに市のシンボルとしてあるのは素晴らしいです[16]

 <関東唯一の遺構、土浦城本丸櫓門> 土浦城築城の年代は定かでないそうですが、本丸櫓門などが整備されたのは17世紀になってからということです。明治時代になると、土浦県庁や新治県庁などに転用されたそうですが、明治17年には本丸御殿と東櫓とともに焼失しました。亀城公園とともに本丸櫓門は茨城県指定史跡になっていますが、櫓門としては関東唯一の遺構だそうです[8]

<亀の甲羅のような中州に建てられた土浦城> 土浦城は標高が2~3メートルほどの、周囲よりやや高い微高地にあります。

 地形分類図を見ると、このあたりはもともと桜川の中州(砂嘴・砂洲)のような場所でした。周囲が深田と呼ばれる低湿地や沼だった中に、堀に囲まれた城の姿は亀の甲羅のように見えたことから、別名「亀城」とも呼ばれて親しまれてきたといいます。土浦に栄えた多くの醤油醸造業の屋号が亀甲じるしになっているのは、この「亀城」にちなんで、最初に国分勘兵衛が始めたのが由来といわれています[11]

 <土浦の自然を謡った校歌> ゆっくり疲れをいやしたら南西の出口から二の丸の堀を渡って城外に出ます。正面に土浦小学校があります。明治6年(1873年)に土浦町一番小学校として開校、同9年になって現在の場所に移ったそうで、昨年、創立150周年を迎えました[17]

    小学校の校歌は北茨城市出身の、詩人で童謡作詞家の野口雨情(1882~1945年)の作詞によるものです。校歌碑があるというのでぜひ見せてもらいたかったのですが、時間がありませんでした。いつだったか、友人から聞いた受け売りなのですが、校歌の歌詞には「土浦」という文字がどこにもないのです。土浦の自然の美しさと、校章「たまき」の理想に雨情が感動して謡ったのでしょうか、素晴らしい校歌だと思います。

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17.終点

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 校門の前を通り過ぎ、土浦城大手門跡や幼稚園跡を過ぎて、再び中城通りに出ればあとは終点の「まちかど蔵・大徳」まですぐです。

 お疲れさまでした、終点到着です。

 <江戸時代にタイムスリップ> 起点のところですこし紹介しましたが、蔵の2階にある民具の展示や、当時の大店「大徳」の2階をそのまま保存した部屋を見学することができます。廊下の窓から見る中庭や蔵のたたずまいは、時間を忘れさせる空間です。

 また道向かいにある「まちかど蔵・野村」ものぞくと良いです。裏の蔵には、カフェやツェペリング号の記念館があります。

                   

             

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おわりに

 私は土浦に住んでもう40年になり、子供たちもここで成長しました。しかし、普段は家の近所やたまに駅前に出かけるくらいで、本当はこのまちのことをよく知りませんでした。あらためて自転車であちこち散策してみると、これまで気が付かなかったたくさんの史跡や、大地の歴史を示す特徴的な地形がいたるところにあることに気がつき、いまさらながら郷土の魅力を発見した気持ちです。

 土浦市立博物館や「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」も、今まで何度も訪れたことがありましたが、りんりんジオ散策の後は、だいぶ見方が変わってきました。これからも繰り返して訪れてみることにします。

 最後に、土浦の地形・地質や歴史記録についていろいろと教えてくださった「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」の皆さん、筑波山地域ジオパーク関係者のみなさん、散策の途中で地域の情報を提供くださった方々に感謝とお礼をいたします。

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近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 吾妻庵(あづまあん)総本店

        茨城県土浦市中央1丁目6−11

             営業時間:11:00~20:00 定休日:水曜日

    tel:029-821-0161​

 火門拉麺

   茨城県土浦市上高津1344−1 

   tel:029-827-2230

   イオンモール土浦

   茨城県土浦市上高津367

    tel:029-835-8600

             http://www.aeon.jp/sc/tsuchiura/

 カフェ・bulbe(ビュルブ)

   茨城県土浦市上坂田610 坂田園芸グリーンゲート 内 

   営業時間:10:00~17:00 定休日:火・水曜日 

   tel:029-893-3177​ 

   https://www.instagram.com/bulbe_cafe

 

【参考資料】 

本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 真壁伝承館歴史資料館 (2018) 第11回企画展「追憶の筑波鉄道~鉄道から自転車道へ~」,  桜川市教育委員会生涯学習課, 22p

[2]土浦市史編さん委員会 (1991)  図説 土浦の歴史,土浦市教育委員会 ,218p

[3]  土浦市観光協会 「土浦古絵図 ぶらり街歩きマップ」

 https://www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1666689348_doc_26_0.pdf(2024.10.1参照)

[4]  土浦市史編さん委員会編 (1975)   土浦市史,土浦市教育委員会 ,1117p

[5]  土浦市史編さん委員会編(1975)   土浦歴史地図(土浦市史別巻),土浦市教育委員会 ,188p

[6] 土浦市洪水ハザードマップ 

         土浦市洪水ハザードマップ | 土浦市公式ホームページ(2024.10.1参照)

[7] 上高津ふるさと歴史の広場 (2000)  上高津ふるさと歴史の広場  常設展示目録 、63p

[8] 土浦市立博物館・上高津貝塚ふるさと歴史の広場編 (2023)  ハンドブック 

       土浦”モノ”語り —資料が語る土浦の歴史ー, 158p

[9] 認定NPO法人 宍塚の自然と歴史の会

     NPO法人 宍塚の自然と歴史の会(2024.10.1参照)

[10]  池田 宏  (1999)  宍塚大池の谷津の成り立ちー残された古い地形ー,宍塚大池地域自然環境調査報告書

[11] 土浦市立博物館編 (2020)  醤油のまち土浦, ブックレット 01,  71p

[12] 遠藤邦彦・小宮雪晴・野内秀明・野口真利江 (2022)  縄文海進ー海と陸の変遷と人々の適応ー, 富山房インターナショナル, 129p

[13] 上高津貝塚ふるさと歴史の広場 (2022) 第25回企画展 「海へ―内湾と外洋の猟労ー」、11p

[14] 筑波大学考古学研究室編 (2024) 武者塚古墳・坂田塙台1号墳-土浦市教育委員会・筑波大学考古学研究室 合同発掘調査報告書2,土浦市教育委員会

[15] 土浦市立博物館・上高津貝塚ふるさと歴史の広場編 (2023)  色川三郎兵衛と土浦の洪水, ブックレット 02,  62p

[16] 土浦市広報 (2022)  亀城公園のあゆみ、 広報つちうら 6月号(2022.6.2), 15

        https://www.city.tsuchiura.lg.jp/data/doc/1590985756_doc_159_1.pdf(2024.10.1参照)

[17] 土浦小学校ホームページ

  校章・校訓・校歌 | 土浦小学校公式ホームページ(2024.10.1参照)

[18] 5万分の1都道府県土地分類基本調査(土浦)「地形分類図」(1982)

       https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0805L.jpg

[19] 宇野沢昭ほか (1988) 2 万5 千分の1 筑波研究学園都市及び周辺地域の環境地質図説明書、特殊地質図(23-2),地質調査所,139p.

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#14,36.07523,140.15675

[20] 土浦市教育委員会・山川古墳群第二次調査会 (2004)  山川古墳群(第2次調査),土浦市総合運動公園建設事業に伴う埋没文化財発掘調査報告書 第8集

          https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11568

    この報告書では、炉跡の炭化物のAMS法による放射性炭素同位体年代測定は、3万1,650年±200年(補正年代BP)と報告しています。報告の時点では市内で最も古い旧石器時代の遺跡とされています。

 

【ジオ・コラム】 

旧筑波鉄道・虫掛駅・坂田駅

 大正7年(1918年)に「筑波鉄道」が開通し、水戸線・岩瀬駅と常磐線・土浦駅の間40.1kmが20の駅で結ばれました。しかし、70年たった1987年に廃線になり、路線跡は自転車専用道路「つくば・りんりんロード」として整備されました。

 廃線後30年たった平成30年(2018年)に、桜川市真壁伝承館歴史資料館で第11回企画展「追憶の筑波鉄道~鉄道から自転車道へ~」が行われ、下のような資料が出版されました[1]

 今回のコースでは、このうち、坂田駅、虫掛駅、土浦駅の周辺を散策します。資料には、昔の駅の写真なども紹介されています。

 

  出典:真壁伝承館歴史資料館で第11回企画展

      「追憶の筑波鉄道~鉄道から自転車道へ~」[1]

 

土浦古絵図

                               出典:土浦市観光協会「土浦古絵図 ぶらり街歩きマップ」[3]

 

 

土浦城郭図

 この絵図を見ると、土浦城(城郭)は南(右下)を桜川で、北(左上)を新川に挟まれた桜川低地の中州にあることがわかります。城郭の外には上沼、下沼につながる堀が幾重にも取り囲んでおり、周囲は深田(湿地)だったことが示されています。        

     江戸時代前期 土浦城郭図

     (原図の上に「上沼」、「下沼」、「新川」、「桜川」、「霞ケ浦」を加筆)

             【原図の出典】図説 土浦の歴史  [2]

 

洪水ハザードマップ

     基図「土浦市洪水ハザードマップ[8]」上にルートを加筆した

       土浦市洪水ハザードマップ | 土浦市公式ホームページ(2024.10.1参照)

 

段採図

 地形図の標高ごとに色分けした図を段採図といいます。この図では標高を5メートル間隔(標高5メートル以下は2メートル間隔)で色分けしています。筑波台地の北縁ふきんと新治台地の南縁あたりでは、台地表面の平坦さに違いがあることがわかります。「縄文海進」があった標高3メートルの範囲が坂田付近まで広がっています。

                           <地理院地図より作成>

 

地形分類図

 地形分類図の上に、本コースのルート、主な河川(青線)と河川・台地・低地名を加筆した。

 【出展】 基図は「図説 土浦の歴史] [2]

   地形分類図の原図は

    5万分の1都道府県土地分類基本調査(土浦)「地形分類図」(1982)

       https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0805L.jpg

 

 

地質図

 ルート周辺の地質図と市街地を横断する地質断面図。なお、地質図では最上部にあるローム層を除いた常総層以下の地質を表示しています(断面図参照)。

   下記出典の地質図及び断面図にルートと説明文を加筆。

 出展:2 万5 千分の1 筑波研究学園都市及び周辺地域の環境地質図(1988) [19] 

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#14,36.07523,140.15675

 

 

上位台地・中位段丘・下位段丘

 地形分類図ではこの地域の台地・段丘を相対的に高い順に、上位台地、中位段丘、下位段丘に区分しています。

 上位台地:下末吉海進の最盛期に筑波山ろくまで海が侵入して海成層が堆積してでき 

       た海成面。南関東の下末吉面に対応。

 中位段丘:川の堆積層(龍ケ崎層)によってできた河成段丘面。南関東の武蔵野面 

       に対応。

 下位段丘:桜川あるいは古鬼怒川の堆積層によってできた河成段丘面。南関東の立川

       面に対応。

 

 

縄文の森

  花粉分析で見つかった貝塚周辺の縄文時代の植物には、コナラ、トチノキ、ヨシの 

  ほか、カシ、スギ、クヌギ、ブナ、ケヤキ、カエデ、ニレなどがありました。

  ―貝塚周辺の自然環境模式図― 

  出典:上高津貝塚ふるさと歴史の広場 常設展示図録 [7]

 

縄文海進・古鬼怒湾

 <縄文海進> 図は関東平野における相対的海水準変動の様子を示す図です。11,000年前頃には-70メートルにあった海水準は、その後急速に上昇し、7,500年前以降5,000年前頃までのおよそ2,500年間は、海抜0メートル~+3メートルで安定していたと考えられています。この海進を「縄文海進」といいます [14]

古鬼怒湾

 縄文海進の時代には、霞ケ浦や、小貝川、鬼怒川の流域一帯は一つの大きな内湾でした。これを「古鬼怒湾(こきぬわん)」と呼んでいます。

  出典:上高津ふるさと歴史の広場(2022)第25回企画展「海へー内湾と概要の漁労

              ー」[13]

 

自然災害伝承碑

 ネットで「国土地理院地図」を開き、調べたい地域を選択して左上の「地図」アイコンをクリックし、トップメニューから「地図の種類」→「 災害伝承・避難場所」→「自然災害伝承碑」→「自然災害伝承碑(億髄)を選ぶと下図①が出ます。中央のポップアップ画面をクリックすると以下のような詳細画面②が出ます。      

       ①

       

 

 

新治台地の古墳群

 新治台地の南縁には、武者塚古墳(番号1)をはじめ下図のように多数の古墳や遺跡群が知られています。武者塚古墳以外で注目しているのは、赤弥堂遺跡(番号14)と、山川古墳群(25)です。前者は貝塚から縄文時代前期の最大海進時に棲息していたハイガイが出土したこと、後者からは旧石器時代(約2万6千年前)の石器と炉跡が出土したことです。なお、私自身はこれらの遺跡の場所を探してみましが、見つけることはできませんでした。

         周辺の遺構 (下記出典の図4の一部に着色)

【出典】筑波大学考古学研究室編 (2024) 武者塚古墳・坂田塙台1号墳-土浦市教育委員会・筑波大学考古学研究室 合同発掘調査報告書2. [14]

 

 




 

1. 羽黒盆地-桜川の源流と里山の原風景を訪ねて ~ここが古東京湾の最奥部? 

                (初回公開:2023.12.10,最終更新日2024.4.11) 

 

コースあらすじ

  茨城県と栃木県の県境にある標高519.6メートルの高峯山(たかみねさん)へ登る途中に平沢高峯展望台(標高300メートル)があります。そこから南を眺めると、眼下に羽黒盆地や岩瀬盆地がまるで箱庭のように見下ろせます(写真)。盆地の中央には桜川の桜並木が見え、その向こうには磯部桜川公園の丘があります。

 ふと、こんな風景はいつかどこかで見たことがある気がしてきました。そうです、竜ケ崎市駅と牛久駅の間でJR常磐線の車窓からみえる景色や、つくばから成田空港へ向かう途中で車からみた、田んぼに浮かぶような丘の景色です。まるで松島や瀬戸内海の海に浮かぶ島々を見ているようだと感じたことを思い出しました。

 ということは、もしかしてここも、はるか昔には海があったのでしょうか? 磯部という地名は海と関係しているのでしょうか?

   

 このコースでは「つくばりんりんロード」最北端の岩瀬駅から出発し、岩瀬・羽黒盆地にひろがる台地や低地の地形と、桜川の最上流域を確かめながら走ります。里山や古い街並みを通りながら、人々がこのような地形をどのように利用して暮らしてきたのか、遺跡や神社・寺院などからその歴史を探ります。こんな山奥まで海があった証拠はほんとうにあるのでしょうか。さあ、それを探しにいきましょう。

 なお、このコースは距離的には少し長めで、起伏も結構ありますので、自分の体力や時間に合わせて、適宜コースを省略して巡ることをお勧めします。

コースデータ

  • 起点:JR水戸線岩瀬駅(旧筑波鉄道終点)駅前

   駅前に 桜川市観光協会のレンタサイクル拠点(高砂旅館)があります。

  • 終点:起点にもどります
  • 走行距離:約17km(鏡ヶ池オプションコースを除く)、高度差:約60m 
  • 所要時間:約5時間(走行時間は約3時間  )

コースマップと高低差

                        <地理院地図より作成>

 <起点からの距離と高低差>

<コースの詳細マップ>

   <Google Map>を使って現在地やコース周辺の地図をを詳しく見ることができます。近隣の観光地やレストランなどの情報もわかります。

<地形や標高などの詳細マップ>

    <地理院地図>を任意に拡大して地形の特徴を詳しく見ることができます。右下のマークを押すと現在地に移動します。中心位置(+)の標高が左下に表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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レンタサイクルの利用について

 起点の岩瀬駅前にある高砂旅館で桜川市観光協会が運営するレンタサイクルを誰でも簡単な手続きで1日600円(ヘルメット付)で借りることができます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

岩瀬駅前レンタサイクル1台600円 | 桜川市観光協会公式ホームページ

 

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おもな見どころ

1. 起点<JR水戸線・岩瀬駅>

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 起点はJR水戸線・岩瀬駅の駅前広場です。つくばから岩瀬駅までは、筑波山口発の路線バス「やまざくら号」を利用すれば約1時間で到着します。自家用車なら、つくばセンターからおよそ1時間かかります。

  <開業130年を迎えた岩瀬駅と岩瀬市街の歴史>  岩瀬駅は明治22年(1889年)に水戸線(当時は水戸鉄道、水戸ー小山間)の開通とともに開業し、大正7年(1918年)には筑波鉄道(岩瀬ー土浦間)が開通してさらに交通の要所として発展してきました。

 駅前広場から富谷山(とみやさん)方面へ広い駅前通りが延びています。レンタサイクルの事務所でおききした話では、岩瀬の町並みはもともとは駅北側の旧国道50号(水戸街道)や結城街道沿いにあったそうで、映画館や銀行など多くの商店が並んでいたそうです。現在の駅前広場は最近になって整理され、新しい国道50号沿いに大形スーパーや電器店・飲食店ができたためか、この辺りは何か寂しくなったような気がします。       

                   

                               

 走行前の自転車点検を済ませたら、さぁ出発です。自動車や交通安全に十分気を付けて走りましょう。                

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2. 「青柳の糸桜」と熊野神社

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<結城街道をへて青柳地区へ> 駅前広場から北へ100メートルほど進み、最初の十字路を右折すると結城街道に入ります。この辺りがかつてのにぎやかな商店街だったようですが、今は閉じたお店が多いように見えます。山王神社を左手にしばらく走ると旧国道50号(水戸街道)と合流しますが、またすぐにわかれて水戸線の踏切を渡り青柳地区に入ります。「今昔マップ」[1] で明治時代の地図を見ると、昔の桜川は現在より蛇行して線路ちかくを流れていて、結城街道(水戸街道)は線路の南側、つまりこの道を通っていたことが分かります。

 <謡曲「桜川」に謡われた「青柳の糸桜」> 踏切を渡ってさらに進むと右側に鳥居がみえ、最初の見どころの熊野神社に到着します。石灯篭のわきに大きな枝垂桜の古木がありますが、これが、かの能楽者世阿弥の謡曲「桜川」にでてくる「青柳の糸桜」です。春の満開時にぜひ訪れてみたいところです。樹齢500年と言われていますが、実際は磯部公園から何度か移植されたもののようです[2]。           

  <山麓のへりに祀られた熊野神社> 花こう岩で造られた一の鳥居をくぐり参道の階段を登ると小さな平坦地となり、木製の二の鳥居と、その先に拝殿と本殿があります。記録によれば平安時代の保元(ほうげん)2年(1157年)に創建された古い神社ということです[3]。     

                

 熊野神社は標高70-80メートルの小さな平坦地にあります。地形分類図 によればこのような地形は丘陵(Hp) あるいは頂部が平坦な丘陵 (Hs) に区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」、あるいはそれに相当する台地と呼ぶことにします。          

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3. 台地上に築かれた花園古墳群

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 <南北に細長く延びる舌状の高位段丘> 熊野神社と青柳の集落をあとにして、道端の二十三夜塔(にじゅうさんやとう)などを眺めながらのんびりと進むと、田んぼの向こうに上城(かみしろ)地区の小高い高台が見えてきます。

 この高台は標高が60-80メートルほどで水田とは高低差が10数メートルあり、南の山地の先端から1キロメートルほど舌状にのびる、頂面がほぼ平坦な台地状の地形です。地形分類図 を見ると、前の熊野神社とほぼ同じ高さの高位段丘に分類されています。

<市指定・花園古墳群二号墳> 高台の上には住宅や工場、畑が広がっていますが、東側の縁に市指定の花園古墳群の一つ、花園古墳群二号墳があります。

      

 古墳は竹やぶの中にあるので季節によっては見分けがつかないかもしれませんが説明看板が立っていますので場所はすぐ分かります。民家の庭先を通っていきますので挨拶をして通り抜けましょう。

                

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4. ハクチョウの飛来地、桝簑ヶ池(ますみがいけ)

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 舌状にのびた台地の間には水田が広がり、しばしばその上流部に溜池があります。友部地区にある桝簑ケ池(ますみがいけ)もそのような溜池の一つで、ここには12月頃になるとハクチョウが飛来することで知られています。もっとも、最近の温暖化のせいか、あるいはもっと餌が豊富なほかの池に移動したのか、最近はめったに見かけないという情報もあります。

 南の加波山が水面に逆さに映る景色は見事です。池の奥に公園がありますので、また改めてゆっくりと水際の植物やハクチョウなどを観察してみることにして、今回はそのまま通り抜けましょう。                         

[追記:先日、厳冬の朝早く出かけてみました。ハクチョウはいませんでしたがたくさんのカモが群がっていました。地元の方に伺ったところ、今冬は昨年の11月末頃に飛来してきましたが、その後しばらくしてどこかへ飛んで行ってしまった。年によっては3月頃まで、とどまっていることもある、とのことでした。2024年2月10日]

 

寄り道】

<台地先端の蕎麦畑> 今回のルートから少し外れるのですが、この舌状台地の北の先端に小さな神社がある高台があります。9月の末に行ったとき、神社の周りには蕎麦の花が満開で、遠くに富谷山や雨巻山が望める絶景がありました。台地は水はけがよいのでこのように蕎麦などの栽培に利用されています。畑の標高は約65mですから高位段丘の先端ということになります。        

       

 桝簑ヶ池を通り抜けて櫛の歯状に並ぶもうひとつの台地にあがると、大きな古い民家や道端に石碑がならぶ古くからある集落がつづきます。ふだんは人影も少ない静かな集落ですが、ときおり元気な高校生たちとすれ違いました。台地の中央にある日大付属岩瀬高校の生徒らしいですが、若者とすれ違うだけで、なにかほっとする活気を感じました。広い台地にはこのように学校が建てられることが多いようです。

                              

     

                                             

 台地の先まで進むとJR水戸線に出会ました。踏切を渡り線路に沿ってすすむと、左手に古い神社が見えてきました。 

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5. 東山香取神社とイワキリ様

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 神社の境内は標高が63メートルほどありますので、どうやら、これまで走ってきた高台はここまで続くようです。地形分類図 で見るとやはり高位段丘の先端であることが分かります。神社の説明では、水戸線の開業に際して社殿が少し北側へ移動したと記されていました。

 神社は総鎮守東山香取神社といい、神社の略記によると創立は神亀(じんき)元年(724年、奈良時代)で、その後、永禄(えいろく)2年(1559年、室町時代)に再建されたということですからそうとう古い神社のようです。神社の右隣には通称イワキリ様と称する祖霊社が並んでおり、この地域の石材採掘に携わる人たちの信仰を集めていたそうです。

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6. JR水戸線羽黒駅

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 線路に沿って東に進みJR水戸線の羽黒駅に立ち寄りましょう。駅の開業は明治37年(1904年)ということで、岩瀬駅より15年ほど後に建設されたことになります。今は無人駅ですが、駅前広場におしゃれな石標が立っているモダンな駅です。トイレもありますので休憩してさらに先へ進みます。

 羽黒駅は標高が約60メートルほどの台地上にあり、古くからの街並みもこのあたりにあったようですが、そこから駅前通りを北へ進むと少し低くなり、北関東の主要幹線である国道50号に出ます。あたらしい国道50号は旧市街地を避けて筑輪川に沿う田んぼの中(標高が53~54メートル)を直線的に走っています。

  

 なおまだ時間は早いかもしれませんが、もしこのあたりで昼食をとりたいときは、駅前、あるいは国道50号線沿いのレストラン、または50号線との交差点にあるコンビニを利用すると良いでしょう。これから進む先にはそのような店が見つかりませんのでご注意ください。

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7. 西小塙(にしこはなわ)市街地は更新世の台地上にある

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<旧国道50号に沿った昔からの街並み> 国道50号の北を流れる筑塙川から150メートルほど進むと旧国道50号(結城街道)との交差点があります。街道沿いには古くからある西小塙(にしこはなわ)の市街が並んでいます。この市街地は周囲の水田と比べるとわずかに1~2メートルほど高く、標高はおよそ55メートルです。車で通ればほとんど気が付かないと思いますが、自転車だとその差がよく分かります。

               

 今昔マップ[1]を見ると、かつてはこの街道沿いが羽黒の中心で村役場や郵便局があったことが分かります。現在は静かな通りですが、郵便局や神社がその面影を残しています。街道は緩やかにカーブをしていますが、もともとの自然の地形を反映しているのかもしれません。寄り道をして市街地を少し走ってみるのも面白いと思います。

<市街地の土台は自然堤防?それとも更新世の台地?> 交差点を通り過ぎて新しい農道との十字路にある広場から後ろを振り返ると、先ほどの西小塙の市街地が水田よりわずかに高いことがはっきり分かります。市街地にあった畑の土壌はローム  からできていましたので、この微高地は自然堤防ではなく更新世の台地であることが分かります。地形分類図  を見ると、台地は今から13~12万年前の海成の地層を土台にしてできた上位段丘 (Ut) あることが示されています。

 海成の段丘ということは、この時代には海がこの地域を覆っていた、つまり今から13~12万年前には「古東京湾」という海が羽黒盆地の中心にまで広がっていたことになります。そういえば、かつて岩瀬の長方(おさがた)というところでたまたま国道50号の拡幅工事をしていて、こことほぼ同じ標高の台地に大露頭があらわれていたことがありました。そこでは海抜45メートル付近にきれいな海浜の砂層がありましたので、同じような海岸が羽黒盆地までひろがっていたのだろうと思われます。詳しくは本文末の【ジオコラム】を参照ください。

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8. 曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ) 

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 太古の海を想像しながらさらに北へ走ります。正面にまた高台が現れ、曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ)の山門が見えてきました。

 

 月山寺は、桓武天皇の代の延暦14年(西暦795年、平安時代初期)に法相宗の徳一大師により中群橋本(羽黒盆地の南にある現在の上城城跡あたり?)に創建されました。永享2年(1430年、室町時代)、光栄上人の代になって天台宗に改宗、以後天台宗の学問所として隆盛を極めたと伝えられています。関ヶ原の合戦以後、徳川幕府の厚い庇護を受け、当地に移転してからは関東における天台宗の中心として学問所を設けるなど大きな役割を果たしてきたそうです。数ある当山の末寺としては、この近隣でも富谷の小山寺や池亀の五大力堂、坂本の観音寺があるそうです

 当寺は秋の紅葉がたいへん美しいことで有名です。また境内奥には立派な美術館(平成元年設立)があり、国指定重要文化財の弁慶の網代笈(あじろおい)をはじめ数多くの文化財や美術品が展示されていて、学問所である月山寺の趣が今でも漂ってきます。普段は扉が閉まっていますが、入口のインターホンを鳴らすと1人でも快く開館していただけます(入館料300円)(月山寺パンフレットより)

      

<盆地中央の高位段丘群> 月山寺の本堂は標高が60メートル 弱の高台に建っていますが、東側にある鐘楼や千手室、ひろい墓地は標高が約6667メートル の平坦な台地の上にあります。境内は造成されているのでしょうが、もともとは周辺に並ぶ台地を含め、盆地の中央に広がる高さおよそ70メートル の広い台地だったと思われます。

 地形分類図では、これらの台地は頂部が平坦な丘陵 (Hs) として区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」と呼んできました。解説書によれば、高位段丘は今からおよそ15万年~50万年前に海の底にたまった地層を土台としてできたとされています。太古の昔、やはりこの盆地には海が広がっていたのでしょうか。

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9. 小野池(小ノ池、このいけ)

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 月山寺をあとに段丘の南縁に沿って東に進むと、西小塙方面からくる直線道路(小ノ池線)に出会います。さっき通った西小塙の方を振り返ると、上位段丘上の町並みや、さらにその東方に続く一段高い台地が見えます。地形分類図 にも示されているように、標高約70メートル あるこの台地は高位段丘です。

 小ノ池線を左折し台地に上がってみましょう。大きな小野池(小ノ池、小野調整池ともいう)が見えてきました。もともと台地の中の谷に堰を作ってできた人口の溜池ですが、現在は霞ケ浦用水系統につながっていて、霞ケ浦からポンプアップした水をためています[7]。この調整池によって羽黒地区の灌漑条件はずいぶん改善したのでしょう。

 池越しに南に見える山は加波山ですが、天気が良いと水面にそのシルエットが美しく映ります。最近では冬になるとハクチョウが飛来することもあるようで、桝簑ケ池から移住してきたのでは、との情報もあります。

 小ノ池の脇にある石材店のところから左にそれ、旧道を上っていくと左手に愛宕神社が見えてきます。神社に登る階段の足元に台地を覆うローム  層と軽石の地層が見えています。厚さ30センチメートルほどの黄褐色の粗い粒の地層が見えますが、これは「鹿沼軽石(Ag-KP)」とよばれる、今からおよそ4万4千年前に群馬県の赤城火山が噴火した時に飛んできた軽石層です[8]

        

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10. 田んぼの中の小川、桜川の上流

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 高位段丘を横断し北側の低地に出ると桜川の上流にであいます。川にかかる橋から見ると、このあたりの桜川は川幅がわずか1メートルほどで、流れもほとんど目立たないような田んぼの中の小さな小川でした。川底には細かな砂がたまっているところもありますが砂利の堆積などはほとんどなく、想像していた岩だらけの渓流とは全く違っていました。

 実は、ずっと下流の、つくば市を流れる桜川中流域を巡る散策コース(コース3)では、河原いっぱいにこぶしくらいの大きさの丸い砂利が堆積していました。河原の砂利は上流から下流に行くにつれ小さくなるのかと思っていましたが、何故、桜川では上流に砂利がないのでしょう。これについてはそちらのコースで詳しく解説しています。

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11. 農民一揆のリーダーを供養する義民地蔵」

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 県道285号線(富谷笠間街道)との交差点を右折するとすぐ、小塩駐在所の隣に「義民地蔵」が祀られています。江戸時代中頃の寛延2年(1749年)、この地域一帯で起こった農民一揆の首謀者として死罪となった、磯部村名主の清太夫、亀岡村の太郎左衛門、そして富谷村の佐太郎の3名を供養する地蔵菩薩です。

 記録[3]によれば、この年の秋、前年からつづいた冷夏による農作物の不作のため、年貢を納められなくなった地元27村の農民およそ1000名が、年貢の減免と延納を要求して笠間城下に押し寄せた農民一揆がありました。結局訴えは受けいれられず、首謀者が捕らえられ、月山寺などの仲介もかなわずに3名が処刑されたということです。しかしこれを機に、笠間藩は、その後さまざまな対策を施すようになったそうで、後世になってから3名の徳をしのび供養する地蔵菩薩が立てられ参詣されるようになったとのことです。

 富谷笠間街道をそのまま東に進むと桜川の源流とされる鏡ヶ池がありますが、少し距離があるので、今回はコースから外しオプションとしました。もし、時間と体力があったら最後の見どころ<18>として追加していますので立ち寄ってください。

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12. 高峯の山桜、絶景のビューポイント

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<山桜絶景ビューポイント> 義民地蔵のすぐ東を左折し、マップを見ながら小塩、池亀の集落を通りすぎます。平沢集落の標高80メートルと書いてある丁字路を右折すると、道路右手に「山桜絶景」と書かれた石碑に巡り合います。石碑の真ん中に四角い窓が開けられていて、どうやらそこから眺める高峯山の山桜が絶景のようです。桜川市観光協会のホームページやパンフレットには見事な写真が載っていますが、次の桜のシーズンに是非訪れてみたいと思います。

 

<桜川の源流風景> マップを見ながらさらに曲がりくねった坂道を登り中山の集落に入ると「高峯見晴デッキ」があります。途中はかなりの上り坂ですから、無理をせずに自転車を押して歩いて進んでください。

 お疲れさまでした。デッキの標高は114メートルで、ここが本コースの最高高度点です。

 デッキの正面右奥に見えるのが高峯山(519.6メートル)です。ここから見る山桜も見事です。右下の写真は2春のの是非春の山桜で大勢の観光客でにぎわっていました。

 目の前の谷川には大きな砂防堰堤がありますが、そのせいか、谷には岩などはなく穏やかな小沢という感じです。地質図を見ると、このあたりに花こう岩が分布していますが、かなり風化して真砂(まさ)になっていることが多いので、このようになだらかな小沢になっているのかもしれません。

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13. 大神台遺跡(おおかみだいいせき)

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  展望デッキから南へ下ると急に視界が開け、広々とした台地の上に出ます。

 このあたりの方に聞くと、もともとは樹木の茂った林だったそうで、その後伐採され、今は畑などに利用されているとのこと。したがって台地の表面やヘリはかなり人工的に造成されているかもしれませんが、それでも、もともと広い台地であったことは間違いないと思われます。

 その畑のなかから、縄文時代の土師器、須恵器などの土器や、石皿、磨石などの石器が多数発見されたそうで、詳しくはまだ明らかになっていないようですが、原始から古代におよぶ、幅広い遺跡のようです。さらに近隣からは、平沢古墳群・まなか古墳群などの古墳がいくつも見つかっているそうです。

 台地中央の十字路に案内看板が立っていますので気を付けて見つけてください。

<大神台駅家跡(おおかみだいうまやあと)比定地> 大神台は古代からの交通の要所でもあったようです。常陸の風土記にもこのあたりに駅家(うまや)があったと書かれているそうです。

 駅家というのは街道筋に一定の間隔(この場合はおよそ30里間隔)で築かれた駅のようなものらしく、遺跡など確実な証拠が残っているわけではないですが、周囲の地名や古道の歴史などからこの当たりだと想定(比定・ひてい)されているようです。台地中央の十字路あたりは新しい道でしょうが、台地の南縁を回ってくる道は常陸国府(石岡市)と上野国府(栃木市)を結ぶ主要な街道だったのでしょうか。

<大神台は高位台地> 大神台の地形は標高が90mから110mで、南に緩やかに傾斜していますが、頂面がほぼ平坦な段丘面だと思われます。北側の山地の延長にあり、山麓斜面の堆積物もあるので、地形分類図 では山麓と区分されていますが、月山寺などで見てきた台地とほぼ同じ標高ですので、平坦部は高位段丘と考えても良いと思います。

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14. 天神様の山桜と磯部の高台

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<桜川上流の桜並木> 大神台の台地から南へ、亀岡の集落を通り過ぎ、右手に香取神社をみて、信号のある十字路に出ます。この地域を東西に結ぶ主要道路、県道289号(富谷稲田線)を横断して、前に見た(がっさんじ)方面に向かって県道257号(西小塙真岡線)を進みます。

 途中で再び、桜川上流にかかる「桜橋」を渡ります。桜川の左岸には桜の並木が続きますが、これが最初に高峯展望台から見えた桜並木ですね。さらに進むと磯部の高台が見えてきました。

   

<天神様の山桜> 近づくと、高台の縁に一本の桜の樹とちいさな祠が立っているのが見えます。見晴らしもよさそうですので、自転車を置いて登ってみましょう。

 上から眺めると、いま走ってきたコースがすっかり見通せて、台地や低地、桜川の様子がよくわかります。祠の脇には「天神様の山桜」の碑が立っています。あとで磯部稲村神社の宮司さんに伺ったところでは、神社から見て鬼門にあたるこの場所にはもともと天神神社があったそうですが、県道257号の切通をつくってまっすぐ伸ばしたときに取り壊された、ということでした。

<ここは典型的な高位段丘?> 標高がおよそ67-68メートルあり、山地からも離れた盆地の中央に広がるこの平坦な高台は、典型的な高位段丘でしょうか。この大きな切通を建設したときには、高台の地層が丸見えになる露頭が現れていたに違いないのですが、今はそれが見られないのが残念です。

 高台の上から県道沿いに南を見ると、300メートルほど先に工場らしい大きな建物が見えます。実は帰った後で調べたのですが、この建物を建設したときに地盤を調べるために掘ったボーリングの資料がありました。資料によれば、地表から深さ十数メートルの地下、標高ならおよそ海抜50メートルくらいになりますが、その高さに貝殻交じりの地層があることが報告されていました。

 貝殻が海の貝か、あるいはシジミのような海岸近くにある沼に棲む淡水の貝かは分かりませんが、いずれにしてもこの地層は、当時のほぼ海面付近の高さに堆積したものだと推定できます。

<もう一つのボーリング試料>  ここで県道を離れ、右折して磯部の高台に向かいます。右手の低地には岩瀬桜川運動公園が見え、左手の高台には桜川市立岩瀬東中学校があります。中学校のグランドが見えてきたあたりに、実はもう一本、防災科学技術研究所が地下に地震計を設置するために掘ったボーリングがありました。その資料でも、やはりグランドから16メートルから20メートル地下に、標高でいうとやはり海抜50メートルくらいの高さに、粘土層があって、中に貝殻片が含まれているという記録がありました。

 ということで、このあたりの海抜50メートルくらいの高さには、昔の海岸または海岸近くの低地にたまった地層が広く分布しているようです。したがってこの台地は、水平な地層を土台としてできた高位段丘ということができるように思います。

 さらに詳しくは末尾にある【ジオコラム】「台地の地下地質」の項をご覧ください。

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15. 磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)

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 いよいよ磯部稲村神社につきました。

 神社の案内によれば、当神社は12代景行天皇(けいこうてんのう)の時代、景行40年(西暦337年)に伊勢の皇大神宮として創立され、その後この地に移祀されたとあります。

 神社でお伺いすると、ご先祖が神社と共に、伊勢から鎌倉やつくばを経てこの地にこられたそうですが、年代などは明らかではない。もともとこの地域は稲と呼ばれていて稲村神社があったのですが、その後、ご先祖の磯部姓をとって磯部稲村神社と呼ばれるようになった、という説明でした。そういえばつくば市にも磯部という集落があり磯部神社がありますね。

 

 

 < 鯰の尾を押さえる石? >  本殿の左手に「要石(かなめいし)」と看板の立った小さな社がありました。説明によれば、当神社は鹿嶋市にある鹿島神宮の戌亥(いぬい)の方角、つまり北西の方角にある鎮守社としてあり、鹿島神宮が鰻の頭を押さえ、当社が尾を押さえて、古来より両神社で国土安泰・地震災難守護を果たしてきたと伝えられているようです。科学的根拠は別として、面白い言い伝えでしょうか。

 <ここで 謡曲「桜川」の原作がつくられた > 神社の境内にはさまざまな種類の桜の樹があり、桜のシーズンにおとずれれば楽しめます。そういえば大分前ですが、神社右手の林の奥で見事な枝垂桜の大樹を見たことを思い出します。

 古来からこれらの桜をめでる多くの歌や句があり、紀貫之はじめ様々な歌人の歌碑や句碑が見られます。室町時代の世阿弥による謡曲「櫻川」は、永享10年(西暦1438年)に当神社の磯部佑行神主が時の管領足利持氏に献上した物語をもとに造られたという言い伝えは有名です。実際には諸説あるようですが、謡曲の内容や能についても、くわしくは文献[3] をみてください。

< 近くから大きなカキ化石が出土!! > 神社でいろいろなお話を伺ったなかで、「そういえばむかし、この近所で井戸を掘ったときに、井戸の中からカキの化石がたくさん出ました」と教えていただきました。あとで確認したところ、そのあたりの標高はおよそ60メートルでしたから、井戸の深さは正確には分かりませんが、やはり、およそ標高50メートルくらいの位置に、かつての海面があったと考えてよさそうです。

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16. 磯部桜川公園

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 神社を後に参道を南に進むとすぐに「天然記念物 桜川のサクラ」の碑がある磯部桜川公園が見えてきます。ここが本コース最後の<みどころ>です。

 これも宮司のお話ですが「昔は戦のたびに神社は要塞になって武士が立てこもり、今の公園の場所は馬場になりました。周囲には空堀が掘られ、今でも残っています」とのことでした。

 

 美しい山桜を集積する景勝地として古くから知られたこの公園の桜は、改めて昭和49年に国指定の天然記念物「桜川のサクラ」となりました。ヤマザクラはたくさんの種類があるようですが、この公園にはその中の11種ほどがあるそうです。景観だけでなく学術的にも貴重な植物として保護の対象になりました[6]。広い公園で駐車場もありますので、桜のシーズンにきてゆっくり鑑賞ください。

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17.終点・岩瀬駅

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 公園を出るとくだり坂になりますので、スピードを出し過ぎないよう気を付けて、一路スタート地点へ戻ります。

 途中、旧国道50号と交わるところで桜川の支流である塙川を稲荷橋で渡ります。このあたりの市街地は標高がおよそ52メートルとなっています。周囲の田んぼとの高度差は1-2mくらいしかないので見落としてしまいそうですが、地形分類図 をみると、ここは西小塙からつずく上位段丘 (Ut) として区分されています。およそ13万年前~12万年前に海面の高さが最も高くなった時代の「古東京湾」はこのあたりまで広がっていたのでしょうか。

 さあ、ここからは旧国道50号に沿って出発点の岩瀬駅まで戻ります。最後まで交通安全に気を付けて走りましょう。

お疲れさまでした。

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オプションコース>
18.桜川の源流「鏡ヶ池(かがみがいけ)」

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<桜川の源流を探る> 見どころポイント<11.義民地蔵>から県道289号(富谷稲田線)をさらに東に進むと、桜川の源流と言われる「鏡ヶ池」につきます。ゆるやかな登り坂になるので、今回は体力と時間に余裕のある場合のオプション・コースとしました。ときたま大型車両も通るので十分注意しながら走行してください。

 小川のような桜川に沿って2.7kmほどすすむと道路が大きく南へカーブする角に「鏡ヶ池」があります。水草の茂る小さな池ですが、新緑や秋の紅葉が美しく、池の水が年中枯れることがないとして古くから親しまれてきたそうです。

 池の脇の山道を500メートルほど登ると鍬柄峠(くわがらとうげ、標高172.2メートル)があります。そこが隣の笠間盆地との分水嶺です。このように桜川源流の集水域はほんのわずかな範囲だということが分かります。にもかかわらず、鏡ヶ池は年中涸れることがないというのは、いったいなぜなのでしょうか。

 なお参考までに、桜川水系の上流の分水界で最も標高が低いのは桜川市と笠間市の間の約85mで、次が石岡市との間の板敷峠の89.9mです。板敷峠の先は恋瀬川上流で水は霞ケ浦へ流れていきます。

 

 

 

 < 真っ白な山砂の産地> それでは来た道をもどりましょう。今度は下り坂なのでずっと楽です。

 途中の道路わきに、山を崩して真っ白な砂を採取している作業場がありました。白い砂は、実は花こう岩が長い年月をかけて風化してできた「真砂(まさ)」と呼ばれる砂です。よく庭園や校庭に敷かれることがあります。そういえば月山寺の枯山水の庭園にも使われていましたね。

 もとは堅い花こう岩であった証拠に、周りが風化して、中心がおむすびのように丸く残った花こう岩も転がっていました。真砂は石材の花こう岩と共にこの地域の重要な産品として販売されています。

 ちなみに、このあたりの地質図を見てみましょう。鏡ヶ池を含め周囲一帯が花こう岩でできていることが分かります。鏡ヶ池が年中枯れないのは、このような真砂の山に大量の地下水が貯留されているからかもしれません。

<のどかな桜川の最上流部> 桜川の最上流部が道路と交叉するところが何カ所かあります。橋のたもとに自転車を止めて、川底を見てみましょう。きらきら光る真砂だけが川底にたまっている、ほんとうにのどかな小川でした。 

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<あとがき>

  今回は、羽黒盆地の全体を巡る、距離も長く起伏も結構あるややハードなコースでしたが、いかがでしたか。まずはお疲れさまでした。

 はじめ高峯山の展望台から見たとき、もしかして、羽黒盆地が太古の昔に海であった証拠が見つかるかもしれない、磯部という地名も何か海に関係するかも知れない、との期待がありました。結果的には、このコースでは海の地層の露頭などの直接的な証拠はみつかりませんでした。

 しかし、実際に現地の地形を見ながら、すでに公表されている文献や調査記録を改めて調べてみると、太古の海「古東京湾」がこのあたりに存在した可能性がいくつも指摘されていることがわかりました。磯部稲村神社の磯部宮司からのお話も、海の存在を示唆していると考えられます。もちろん、本当に海面下だったのか、ただ海の近くの低地だったのかなど、厳密にはいろいろ議論もあるようですので、今後さらに調査や研究が行われると良いと思います。

 また、今回の「りんんりんジオ散策」を終えて、新たな疑問もうかんできました。なぜ小さな桜川の上流にこのように広い盆地ができたのか? なぜ「高位段丘」が広く見事に残っているのだろうか? などです。風化した花こう岩は侵食されやすいためなのか、海による侵食作用は河川以上に激しいためなのか、後の時代に大きな河川が近くになかったので元の地形が残されたのか、など、あたらしい課題も増えたように思います。

 古代の街道から、鉄道や新しい道路の建設など、この盆地の地理や地形の特徴がいつの時代にも活かされ、人々の歴史とその変遷に大きなに影響を与えてきたようなのも面白かったです。

 ということで今回も「りんりんジオ散策」の魅力を十分味あうことができたと思います。途中でいろいろなことを教えてくださった、地域の皆さんに感謝いたします。

<完> 

【謝 辞】日ごろからご指導いただいている下記のメンバーの方々に感謝いたします。

   ・つくば里山研究会

   ・ジオトレアカデミー

   ・筑波山地域ジオパーク推進協議会

 

近隣のおすすめグルメ店、コンビニ店

  • あじさい(うどん屋)  桜川市友部 1037-2 tel : 0296-76-2088

  • 魚勝(蕎麦店)   桜川市西小塙 845-2   tel : 070-4105-4564

  • らーめん「美春」    桜川店桜川市友部 tel : 0296761835



  • 札幌ラーメン「道産嫁」  桜川市西小塙543

  • インドネパールカレー 「レストランラージャ」 桜川市友部895−1

  • 「ミニストップ 岩瀬羽黒駅入口店」 桜川市友部字関田973−1

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【参考資料】 

本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.12.20参照)

[2]【桜川市】 桜川の糸桜

    https://sakuraibaraki.localinfo.jp (2023.10.23参照)

[3] 岩瀬町編(1987) 岩瀬町史 通史編

[4] 5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真岡」

  この地域の図面は【ジオコラム】を参照

[5] 桜川市商工観光課発行(2023) るるぶ特別編集「桜川市」

     https://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/doc/1679552169_doc_36_0.pdf  

   (2023.12.10参照)

[6] 桜川市商工観光課発行パンフレット 「さくらめぐり」

   http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000508.html

[7] 霞ケ浦用水事業について、 茨城県ホームページ

  https://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/nishinourin/tochi/jigyo/tochikai/kasumigaura-irrigachion-project/index.html   (2023.12.10参照)

[8] 小松原純子・大井信三 (2020) 鹿沼軽石 (Ag-KP) の噴出年代、地質ニュース、

    Vol.9, 315-316

【ジオコラム】

地質図

下図は[「シームレス地質図V.2」の本コース周辺の地質図上に、コースのルートを加筆して作成。地質図の説明記号は下記の「20万分の1地質図幅「水戸」(第 2 版)」による。

  出典: https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441 

      (2023.04.05参照)

  出典:吉岡敏和・滝沢文教・高橋雅紀・宮崎一博・坂野靖行・柳沢幸夫・高橋  

      浩・久保和也・関 陽児・駒澤正夫・広島俊男  (2001) 

       20万分の1地質図幅「水戸」 (第 2 版)

【地質図の記号説明】 

 Ig:稲田花こう岩、Js:ジュラ紀付加コンプレクス(八溝層群)砂岩、

 Jsm:同砂岩泥岩互層など、Sk:境林層及びその相当層(礫・砂

 および泥、中期更新世)、tm:中位段丘堆積物

花こう岩:地下深い場所(地下数キロから10キロメートル)で高温のマグマがゆっくり冷えて固まった火成岩の一種。含まれる鉱物の違いで石英などケイ酸塩鉱物の多い白っぽい花こう岩とケイ酸塩鉱物の少ない黒っぽいはんれい岩とに分類されます。

真砂(まさ):花こう岩(類)がその場で風化してできた白色~淡灰色の砂、およびそれが移動して堆積した堆積物(真砂土ともいう)です。小さな岩石片から成る粗い砂から粘土のような細粒分を含むものまであり、一般に土木機械で容易に掘削できます。風化し残った元の花こう岩が丸い核のように残っていることもよくあります。風化してできた粘土はカオリンを多く含むので陶磁器の主要な原料となります。

更新世(こうしんせい):地質時代の区分で、今から258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です

 

地形分類図

5万分の1都道府県土地分類基本調査「真岡・壬生」の基図に、本コースのルートと地形分類図記号を加筆して作成

【地形分類図の記号説明】

M:山地(起伏量100m以上)、Hp:丘陵(起伏量100m以下)、Hs:丘陵頂平坦面、Ut:上位砂礫台地、Mt:中位砂礫侵食段丘群、Lt:砂礫侵食段丘群、P:谷底平野と後背湿地

【出典】5万分の1都道府県土地分類基本調査「真岡・壬生」地形分類図

https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0814L.jpg

丘陵、頂部に平坦面を持つ丘陵:山地に対する平野の地形は高さの順に「丘陵・台地・低地」に区分されます。山地より低く台地より高いおよそ100mより低い起伏を丘陵とよびます。地形分類図の説明によれば、「羽黒盆地では丘陵の延長上に頂部に平坦面をもつ丘陵が良く発達する。このような平頂な丘陵は標高が60m以上あり、海成の砂層や泥層を含む多摩期(更新世中期)の海進に伴う海成堆積層で構成される。友部地方の友部層と同時代の小内湾ないし入り江の地層と考えられる」と記載されています。

高位段丘:本文では、「頂部に平坦面を持つ丘陵」を便宜的に「高位段丘」と呼んでいます。

上位段丘:地形分類図の説明書によれば、 羽黒盆地の上位台地・段丘(Ut)については「今から13-12万年前の下末吉海進の海進に伴う谷埋め堆積物や、貝化石を含むシルト・粘土層など沿岸の入り江ないし湖沼の堆積物からなる台地で、表層を鹿沼軽石層(Ag-KP,4.4万年前)をふくむローム層でおおわれる。貝化石層の分布上限は標高45m付近となる」と記載されています。

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台地の地下地質

 少し専門的になりますが、<みどころ14.>でふれた台地の地下地質についてもう少し詳しく見ててみましょう。

 下図のA,B 2か所のボーリングのデータには、この地域の地下十数m(標高50m付近)には、昔の海底または海岸付近の低地で堆積した地層が広く分布していたことが示されています。

<ボーリング位置図>

<ボーリングによる地下地質柱状図>

ボーリングデータは下記の「ジオステーション」から公表されています。

   出典: https://www.geo-stn.bosai.go.jp/mapping_page.html

3. 段丘上に発展した北条の街並み ~北条用水をたどる

                        <最終更新 2025.08.29>

コースあらすじ

  つくば市の北条に行ったことはありますか。街の中心をとおる街道に並行して、一段低い坂の下を、北条用水、別名を「裏堀」と呼ばれている小さな用水路が流れています。何と、鎌倉時代初期に、この地一帯をおさめていた多気太郎義幹(たけたろうよしもと)が、耕地開発や防衛のためにつくったものだ、と言い伝えられている歴史的な水路です。

 このコースでは、つくバスの終着駅「筑波山口駅」から出発します。まず、この北条用水の取水口をもとめて、桜川の禊橋(みそぎばし)へ向かいます。あとは水路をたどって多気太郎義幹の墓のある北条まで下り、水路が地形を巧みに利用してひかれていることを確かめます。北条の街が段丘の上にあることを確かめ、さらに北側の一段高い台地に上がり、そこで太古の海の底だった痕跡の地層を見ます。台地の地形を利用したブドウ畑と平沢官衙遺跡を訪れ、北条大池、台地の縁にある古墳の跡を見て、旧筑波鉄道の「常陸北条駅」に向かいます。最後は、つくばりんりんロードで起点の筑波山口駅まで一気に戻ります。

 北条用水をたどって大地の成り立ちと北条や平沢の歴史を探ってみましょう。

コースデータ

  • 起点:筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)。つくばりんりんロード筑波休憩所として駐車場,レンタサイクル,トイレ・休憩所があります

  • 終点:起点にもどります

  • 走行距離:約14km、高度差:約20m

  • 所要時間:約3時間(走行時間は約1.5時間  )

地図と高低差

<地理院地図より作成>

 

<起点からの距離と高低差> <段採図はこちら

<Google Map>を閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。

<地理院地図>下から地理院地図を閲覧できます。十地点の標高がわかります(左下⇒)。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

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レンタサイクルの利用について

 起点の筑波山口駅事務所でレンタサイクルを借りることができます。誰でも簡単な手続きで1日500円でヘルメットと自転車を借りることができます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

  つくば市レンタサイクル | つくば市サイクリングガイド

主な見どころ

*本文中の[ ]内数字は【参考資料】の番号に対応しています。アンダーライン(または青字)の用語は【ジオコラム】に解説があります。

1. <起点>筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)

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 コース起点の筑波山口駅は、つくばセンター発の「つくバス・北部シャトル」の終着駅です。もともとは旧筑波鉄道「筑波駅」の跡で、ちょうど路線の中間地点にありました。昔のホームや駅舎の一部が残っていて、つくば・りんりんロードの「筑波休憩所」として、最近リニューアルされました。駅の事務所でレンタサイクルを借りることができます。

 準備ができたら出発しましょう。

   

          

 <蛇行する桜川を改修してできた新しい桜川> まず、りんりんロードを北に進み、すぐ左折して県道14号を横断し、桜川に向かいます。桜川にかかる禊橋(みそぎばし・1986年3月完成)から下流方向を見ると、大きなダムが見えます。よく見ると、その手前、川の左岸に、古い桜川の跡が見えます(左下写真・本流との境に小さな堰がある)。

「今昔マップ 関東1988-2008」[1] で昔の地図を見ると、蛇行した古い桜川が描かれています(右下図)。つまり、いまの桜川とダムは、橋が完成した1986年の後に、河川を直線的にするために改修されたものであることが分かります。

  

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2. 桜川中流ジオサイト

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 <北条用水の取水口> 橋をわたってすぐ左折、右岸堤防の広場にでると、筑波山地域ジオパーク推進協議会 [2] が設置した「桜川中流ジオサイト」の看板が見つかります。目の前のダム(バルーン堰)は、4月初めから8月終わりまでの灌漑期にだけダムの風船がふくらみます。満水になると、堰のすぐ手前にある鉄格子の取水口まで水面があがります。満水時の水面の高さは堤防の標高(約18メートル)から推定するとおよそ17メートルくらいでしょうか。これが北条用水の取水口で、ここから北条まで水が流れるしくみです。ちなみに、上で見た「今昔マップ」をみると、昔の堰と取水口は蛇行した場所にあり、その先は今とほぼ同じ水路を流れていたことが分かります。

 <河原の石は昔の鬼怒川由来> 灌漑期以外はダムの底には広い河原が現れ、いろいろな種類の礫(丸い小石)を観察できます。解説看板によれば、この礫は、昔このあたりを鬼怒川が流れていた時に、日光地域から運ばれてできた礫層に由来するものとの説明があります。河原に下りるときは足元に十分注意しましょう。 

 

 <桜川の洪水と微高地> 解説看板には1986年の台風10号による桜川洪水時の空中写真があります。それによると、このあたりの低地一帯は洪水で冠水しましたが、いくつかの集落は洪水を免れた様子が分かります。このような集落に行ってみましょう。

 旧道をたどっていくと、このときの洪水から免れた集落の中菅間(なかすがま)地区に入ります。ここは古代の遺跡(菅間稲荷塚古墳、6世紀後半頃)が残るほどの古い集落のようで [3] 、 いまは宅地や神社・畑地になっています。畑の土は茶色いローム質なので、更新世下位段丘だと思われます。まわりの水田が標高17メートルくらいなのに、それよりほんの1-2メートル高いことで洪水を免れていたわけです。

 <桜川の原風景?> 集落をぬけ、昔の街道らしい旧道にでて、桜川にかかる中貫橋を渡ります。橋げたはさすがに鉄骨ですが、欄干が木製の古い橋です。ここから上流を見ると、もともとの蛇行する桜川の様子がよく分かります。最近の河川改修のため、河床は少し下がっているかもしれませんが、河床から2-3メートル高い川岸は自然堤防でしょうか。北条用水はこのような自然堤防の上を流れていると思われます。

 

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3. 北条用水

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<古い集落を流れる北条用水> 中貫橋を渡り、左岸側の堤防を越えてしばらく進むと大貫地区に入り、ここに北条用水にかかる小さな橋があります。地図を見ると、橋の標高が18メートルですから、先ほどの取水口の高さとくらべて、用水が自然堤防の上をほぼ水平に流れていることがわかります。

 

 <寄り道:コースからはそれるのですが、この橋から用水路に沿って250メートルほど上流で、北条用水が、東の神郡(かんごおり)から流れてくる逆川の下をくぐるところがあります。現在はコンクリートでできたサイホンの施設ですが、昔はどのように交叉していたのか想像してみましょう。>





 

 <神郡(かんごおり)の条理遺跡> 古い歴史を感じさせる大貫の集落を通り過ぎると、県道14号の交差点に出ます。信号を渡り、神郡に向かう田んぼの中の直線道路を東に進みます。

目の前には素晴らしい美田が広がりますが、このあたりから弥生時代の水田の遺構(神郡条理遺跡)が発掘されたそうです。発掘のとき偶然に見つかった、摩耗した弥生式土器は、おそらく、桜川の洪水かなにかで、近くの微高地から流されてきたのかも知れないと考えられたようです[3]

 <水田にそびえる筑波山の絶景> とにかく、2000年ちかくもの間、人々がずっとこの土地を耕しつづけてきたわけですから、本当に驚きです。ここから眺める、筑波山南麓のパノラマは絶景の一つですが、なぜ田んぼの中からいきなり877メートルの山がそびえているのでしょうか。

 りんりんロードにでたら北条に向かって南下、旧筑波鉄道の杉木駅があった交差点にでます。ここでも北条用水と交叉するのですが、見落とさないよう気をつけて走りましょう。

 

 

寄り道:これもコースから外れるのですが、大貫の北条用水にかかる橋から、用水路に沿って杉木の県道14号交差点につながる道があります。この区間の北条用水が、周囲の水田より2-3メートルの高さに土盛りされて造られていることが分かります。これが本当に最初からあったのかは分かりませんが、もしそうなら、たいへんな難工事だったのではないかと想像されます。なお、この道は冬場以外は路面に草が繁って走りにくいかもしれませんので注意してください。>

 

 

 

 <自然堤防上から洪積世の段丘上へと流れていく北条用水> 周囲の田んぼはどんどん標高が低くなり、このあたりでは15-16メートルほどになります。一方、北条用水はほとんど標高が変わらす、ほぼ17メートルのままです。用水はこのあたりからは自然堤防上から乗り換え、洪積世の段丘の上を流れていきます。

 北条の市街に入る直前に、「多気太郎義幹の墓入口」の案内看板があります。案内に従って坂道を登っていくと、ここでまた北条用水に出会います。たしかに一段と高い段丘の上を流れていることがわかります[4]

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4. 多気太郎義幹の墓

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 <北条用水は鎌倉時代にどのように建造されたのか> 北条用水は、鎌倉時代初期に、多気太郎義幹により、耕地開発や街を守る防衛のために造られたと伝えられています。この時代に、北条の高台に水を引く工事の設計や建造はどのようにされたのでしょうか。多気一族が、この辺り一帯を広く支配していたからこそできたのだ、と想像されます。義幹の墓が用水を眼下に見下ろす高台のへりにあることは興味深いです。なお、義幹の墓は、もともとは別の場所にあったとも伝えられています。

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5. 街中の北条用水(裏堀)

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 <台地の地形を利用した北条の街並み> 北条の市街は高さの異なる何段かの段丘上に分布しているようにみえます。 仲町の中心市街地は標高が約20メートルの段丘上にありますが、北条用水は、それより一段低い、標高16メートル位の裏街の台地上を流れています。明瞭ではありませんが高さの違う段丘面があるように見えます。なお、これとは違い、河川の浸食斜面の地形という解釈もあるようです [5]

 いずれにせよ、ここまで来ると、北条用水は、河床の標高が13メートルくらいの桜川と比べて、大きな標高差ができているので、このあたりの広い田畑に灌漑用水を供給する十分な役割を果たしていると思われます。

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6. 北条の街並み

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 <交通の要所だった北条の街> 古い民家や商店が並ぶ北条の中心市街は、江戸時代ころから街道筋の街、あるいは筑波山への門前町として栄えていたようです。仲町の交差点の角に、「ここよりつくば道」の大きな道標がありますが、江戸時代の正徳5年(1715年)に建てられたそうです。道標の土台に刻まれている「小澤惣兵衛」は、この辺りの大店の主だったのでしょうか。北条では、米のほか、醸造品、大豆や綿、油なども盛んに取引されて定期的に市が立っていたようです [3]

 

 仲町の中ほどに「北条ふれあい館(旧田村呉服店)」という古民家の無料休憩所があります。ここで、北条についていろいろとお話を聞くことも楽しみです。また、通りには、美味しいレストランもありますのでご利用ください。

 

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7. 八坂神社

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 <台地の縁にある古墳> 仲町を過ぎて鍵状に折れ曲がった角の高台に、八坂神社があります。もともと円墳があった場所のようです(八坂神社古墳)[3]。神社の左手には古い石造の五輪塔があり、県指定工芸品に指定されています。地輪には経筒が収められていた穴の跡があるそうです。

 <上位段丘に登る> 八坂神社前のかぎ型の曲り角を過ぎて、さらに東へ200メートルほど進むと大きなT字路に出ます。そこを左折し、高さが10メートル以上ある広い坂道を登っていきます。かなり急ですので、自転車を押して歩いて進むと良いでしょう。 

 上に広がる平らな台地は中台(なかだい)台地と呼ばれ、標高は約30メートル以上あります。この台地は、今から13-12万年前の海の地層を土台にしてできた海成の段丘(上位段丘)です。台地上は広いブドウ畑や野菜畑になっています。

 <桜川沿いで最大の上位段丘> 桜川流域全体でもこのように広い上位段丘が残っているのは、最上流の岩瀬盆地をのぞくと、この中台台地のほかには見当たりません。なぜ桜川左岸のこの場所に広い台地が残されたのか、本シリーズの別のコースとも比較して考えてみたいと思います。

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8. 古東京湾の地層

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 <むかし海であった証拠は何か> 公民館がある十字路に戻ります。公民館の敷地に駐輪し、フェンス越しに向かいの民家裏にある小さな崖(露頭)を見てみましょう。粒のそろった黄褐色の細かな砂の層が見えます。これは昔の海岸近くにたまった砂層で、ここがかつては海の底だったことがわかります。近くの別の露頭では、波打ち際に棲んでいた特徴的な生物の痕跡(白斑状生痕化石)もあります。

 <美しい筑波山の秘密がわかった!> 実は、関東平野の広い範囲でこのような海が広がっていた証拠が見つかっていて、その海は約13万年前~12万年前にあった「古東京湾」とよばれています。しかし、「古東京湾」がこのように山麓のすぐ近くまで迫っていた場所は、関東平野ではほかにありません。たぐいまれな筑波山の美しい景観の秘密は、まさにそこにあるといえるのではないでしょうか。

 

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9. ブドウ畑

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 <新たな台地の土地利用> 砂地の台地は水はけがよいのでブドウ栽培に適しているのか、最近になってワイナリーもでき、地元産ブドウ酒の生産が始まりました。筑波山麓にはほかにもこのような台地を利用したブドウ栽培が盛んになっており、新たな土地利用の形が見られます。

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10. 平沢官衙(かんが)遺跡

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  <古代の土地利用> 谷をはさんだ北側の台地上に、平沢官衙(かんが)遺跡があります。今から1000年以上前の奈良・平安時代の筑波郡役所(官衙)跡で、昭和50年ころから発掘調査がされ、大規模な高床式倉庫群など、建物の一部が復元されています。全国的にも数少ないこの時代の遺跡で、国の史跡に指定されています。台地の上は穀物や織物など物資の貯蔵に適していたのでしょうか。建物の礎石は、約半分が変成岩、半分が花崗岩で、いずれもすぐ近くの筑波山麓に産出する岩石です。

 歴史広場には休憩所や売店、トイレがありますので一休みできます。ここは宝篋山の登山口でもあり、様々なパンフレットが置かれているので、大勢の来訪者に利用されています。なお、休憩所の前に、官衙の歴史の説明看板と並んで、ジオパーク解説看板があります。このあたり一帯が「古東京湾」の海岸だったことが説明されていますので見てください。

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11. 北条大池

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 筑波山麓でも人気の桜の名所で、水面に映る筑波山や宝篋山の景色は絶景です。農業用の灌漑池として、江戸時代以前には作られていたようですが、台地の地形を巧みに利用している様子が面白いです。中央の小さな島は、地元では「弁天様」と呼ばれているそうです。 

 新町のバス通りにでたら信号を渡り、バス通りを西へ300メートルほど進むと「平沢入口」のバス停留所があります。細い小道を右折し50メートルほどすすむと数メートルの高さがある台地があらわれ、そのへりに石室古墳が見つかります(看板などはありません)。

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12. 中台1号墳

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 <台地縁の古墳群> 中台1号墳です。これは北条や平沢周辺に集中して分布する横穴式石室古墳群の一つで、古墳時代はこのあたりが最有力豪族の本拠地であったと考えられているようです [3]。桜川低地や対岸の筑波台地まで一望できる、このような台地の縁に多くの古墳群が分布するのは、当時の豪族の権威を示そうとした意味があるのでしょうか。

 <平沢は埋葬石材の産地だった?> 石室の石材は周辺山地にある変成岩(雲母片岩)です。1億年以上も前に海底にたまった砂岩などの堆積岩が、その後地下深部の圧力やマグマの熱で変成した板状の岩石です。古墳時代、平沢地域は埋葬石材の主な産地だったようで、千葉県あたりの遺跡でも使われていたそうです[6]。手で触って硬さや、きらきら光る鉱物の様子を確かめて見ましょう。

 <再び北条用水に出会う> バス通りに戻り、街なかの小道をどんどん西へすすむと、角に大きな石碑の立った昔の駅前通りにぶつかります。ここで再び北条用水に出会いました。このあたりの地面の標高は16-17メートルで、用水面の標高は15-16メートルくらいでしょうか。つまり用水の水は取水口からここまでわずかな勾配で流れてきて、この先で広い水田に配水されているわけです。

 <ジオパーク・ミュージアム> 南に向きを変えた北条用水に沿って最後の見どころに向かいます。途中で旧筑波東中学校の門の前を通りますが、ここに筑波山地域ジオパーク推進協議会の拠点施設「ジオパーク・ミュージアム」があります。さまざまな展示や模型を使って、筑波山地域ジオパーク全体の情報を分かりやすく知ることができますので、是非お立ちよりください。

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13. 旧筑波鉄道「常陸北条駅」跡

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 <今は寂しい常陸北条駅跡> 常陸北条駅跡に到着。すぐ南には県立筑波高校があり、北側には広い駅前通りが残っていて、ホームもあります。今は寂しい駅前ですが、かつては北条の玄関として、通勤や通学・観光客でにぎわったのでしょう。

 ここから起点の筑波山口駅まで、つくばりんりんロードで一気に戻ります。約4キロメートルありますが、りんりんロード一番のビューポイントで、筑波山を見ながら走りましょう。

お疲れさまでした!

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近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができますので、お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の[ ]内の数字と対応しています。

[1] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.01.25参照)

[2] 筑波山地域ジオパーク推進協議会ホームページ

    https://tsukuba-geopark.jp/  (2023.01.26参照)

[3]  筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻・下巻)

[4]  5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図

  https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg  (2023.01.25参照)

[5] 宇野沢昭ほか (1988) 2 万5 千分の1 筑波研究学園都市及び周辺地域の環境地質図説
         明書、特殊地質図(23-2),地質調査所,139p.

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441  (2023.01.25参照)

         地質図は上のWebサイトから、「地質図幅選択」⇒「各種シリーズ」⇒「特殊  

   地質図」⇒ 「筑波研究学園都市および周辺地域の環境地質図」を選択ください。

[6] 浅野孝利(2022)石棺・石室石材から見た古墳時代常総地域の流通,筑波大学 先 

  史学・考古学研究 第33号 33-59

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【ジオコラム】

自然堤防:洪水時などに川が運んできた土砂が川の周囲にたまり自然にできる堤防です。その外側にできる軟弱な後背湿地より地形的に高く地盤も良いので、洪水にも免れることがあり昔から畑や宅地に利用されてきました。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

上位段丘・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地盤の上昇と地球規模の気候変動による海面の低下により生じた河川の浸食作用できた段丘です。段丘は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい)、中位段丘(同じく20数mくらい) 、下位段丘(同じく10数mくらい)に区分されています [4]。段丘を構成する地層の時代から、その形成の順序は下図のようになっていると考えられます。なお、図は模式的なもので具体的な地名に対応したものではありません。

 

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段採図(地理院地図より作成)

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地形分類図

   5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図の基図の上に、本コースのルートを加筆した。

【地形分類図の記号説明】

 M:山地、Hp:丘陵地、Ut:上位台地、M1・Mt2・:中位段丘、Lt:下位段丘、

 Ps1・Ps2・Ps3・Ps4:山麓緩斜面、S:崖および斜面

【出典】 

   5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)「地形分類図」(1981)

https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg

 

 

 

3. (追加コース) 広大な桜川低地を横断 ~桜川低地と小集落のなりたちを訪ねる

 


                                         <最終更新 2025.08.31 >

コースあらすじ

<コース02>の「おまけコース」です。時間にゆとりがあったらつづけて走ってみましょう。

 <起点>はコース02の「13.常陸北条駅跡」です。りんりんロードの桜並木を南下して、途中から桜川低地を一気に桜川まで横断し、あとは左岸堤防にそって北上します。昔の鬼怒川がつくったとされる幅広い低地の地形と、低地の中の微高地に栄えた歴史ある君島地区、泉地区、小泉地区をおとずれます。途中で桜川の河原に下りて、約13万年前の化石カキ礁を遠望し、最後はりんりんロードに戻ります。

 一部、桜川の堤防では砂利道を通ります。季節や天気によって、草が生えていたり、雨あがりには水たまりを通ることもありますので気を付けて走行しましょう。

コースデータ

  • 起点:旧筑波鉄道「常陸北条駅」跡

  • 終点:りんりんロード交叉点

  • 走行距離:約 6 km、高低差:約 3 m

  • 所要時間:約1時間

地図と高低差

<地理院地図より作成>

 

 

<起点からの距離と高低差:断面図> 

  

 

<Google Map> グーグルマップを閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。 

 

<地理院地図>下から地理院地図を閲覧できます。十地点の標高がわかります(左下⇒)。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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主な見どころ

*本文中の[ ]内数字は【参考資料】の番号に対応しています。アンダーライン(または青字)の用語は【ジオコラム】に解説があります。

14. 桜川低地

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<昔の鬼怒川の低地にできた桜川低地> 「常陸北条駅跡」を出発、りんりんロードを約1.4キロメートル南下します。道の両側には桜並木がつづきます。まちがいなくりんりんロードでも最高の花見コースの一つでしょう。送電線を通過してすぐに、ひろい農道に出たら大きく右折し、そこから桜川低地を一気に横断して、桜川堤防めざして進みます。このあたりで桜川低地の幅は1.5キロメートルちかくもあり、現在の桜川の規模にしては異常に広いことからも、昔の鬼怒川(古鬼怒川)がこの低地を流れていたと考えられています[1]。広大な水田は、実は、「昔の鬼怒川からの贈り物」ということなのでしょう。

 農道の途中でとまり水田の向こうにそびえる筑波山のすばらしい雄姿を眺めてみましょう。田植えの頃や稲が実る収穫時期の景観は最高です。



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15. 君島の集落

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 <低地の中の微妙な地形に注目> 現在の桜川は、この幅広い低地の真ん中を流れるのではなく、むしろ右岸側(西側)の筑波台地(中位段丘、標高25-30メートル)のへりに沿って流れています。もういちど、コースの高低差を示した断面図をみてください。

りんりんロードと農道との分岐点で標高15.5メートルあった水田の高さは、西に向かってどんどん低くなっていき、君島地区のちかくで一番低くなって、約12メートルであることが分かります。微妙な傾斜ですが自転車で走っていても、下り坂の地形に気が付くかもしれません。

 さらに、段採図をみると、低地の中にも微妙な起伏があり、昔の桜川の蛇行跡や自然堤防の跡があるのが分かります。現在は大規模な耕地整理によって人工的にかなり改変されているでしょうが、桜川が蛇行しながら徐々に西へ移動していき、現在の筑波台地を直接削ってきたことが想像されます。

 君島地区は筑波地域でも古い歴史をもった集落です。街中を走ると古い住宅や神社やお寺があります。畑の土を見るとローム質であることから、桜川低地のなかでもわずかに高い(標高は約13メートル)この集落は、更新世の台地(下位段丘)であることが確認できます。

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16.山木の化石カキ礁

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 左岸堤防上の道を進みながら桜川の河床を観察しましょう。君島橋の上から見ると右岸の筑波台地との関係が良く分かります。

 <桜川流域で最も古い時代の地層> 県道を横切り堤防上の砂利道を700メートルほど進むと、模型飛行機発着の広場が現れます。さらに50メートルほど進むと河原へおりる小道があります。河床から2、3メートル高い広場がありますので、そこに自転車を置きます。その場所から対岸の水際をよく見ると、川の水面すれすれに白い化石が密集している地層が遠望できます。

 <約13万年前の海水面の証拠>これらはマガキの化石で、生きていたままの状態で化石になった部分もあります。つまり、かつてこのあたりは海の中、しかも内湾の河口ふきんで、海抜がゼロメートルちかくだったことを示す貴重な証拠です。地層の時代は今から約13万年前で、桜川の中・下流域では最も古い時代の地層になります。このころ氷期が終わり、気候が急に温暖化して海面が上昇し、広い海(古東京湾)が拡がってきたことを示すと考えられています。

 現在の地層の標高は約12メートルですが、当時の海水準面(海抜ゼロメートル)がなぜこの高さにあるのか、地殻変動で隆起したからなのかなど、いろいろ想像してみましょう。

【注意】川を渡って対岸の化石に近づくことはたいへん危険です。学術的にも貴重な地域資源の保全に心がけましょう。                   

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17泉子育観音 慶龍寺

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 <低地の中の微高地で栄えた集落> 桜川左岸をさらに北上、県道を横断するトンネルをくぐると、かつては泉村と呼ばれた古い集落に入ります。ここも立派な古民家が並んでいます。地面の標高はおよそ14m、目の前の桜川河床や周囲の水田よりほんの1-2mだけ高いところですが、よく見ると畑地の土壌はあきらかにローム質で、この微高地も更新世の下位段丘だと思われます。

     

 街中に慶龍寺があります。泉子育観音として、地域や関東一円の人たちに愛されてきたお寺です。寺の由来によれば、創建は元和4年(1618年)、本尊は「子育出世正観世音菩薩」です。諸国布教中の慶龍上人が、途中桜川の洪水で行く手を阻まれ、村に流行っていた小児の悪病退治を祈願して堂庵を建て、これがのちに慶龍寺と呼ばれるようになったと伝えられているようです。

 泉地区を抜けて北条に向かう途中に、小泉地区があります。ここも更新世の下位段丘の微高地で、古くは小田顕家(北条五郎)の館(小泉邸、鎌倉時代末期・明応年間、1495年ころ)があったといわれる古い集落です。集落のはずれに宝篋塔(顕家供養塔)や八幡社が残っており、折れ曲がった不思議な小道は当時の館をとり囲む壕の跡だそうです[2]

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つくばりんりんロードに合流

 最後に国道125号の信号を渡り、少し坂道を上ると「つくばりんりんロード」に到着、一路「筑波山口」へ向かって帰ります。国道125号信号の角には、JAつくば市 筑波農産物直売所がありますので、地元の野菜などのショッピングをしてお帰りください。

お疲れさまでした。

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近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができますので、お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の[ ]内の数字と対応しています。

[1] 池田 宏・小野有五・佐倉保夫・増田富士雄・松本英次 (1977) 筑波台地周辺低地の地形発達―鬼怒川の流路変更と霞ヶ浦の成因―, 筑波の環境研究2, 104-113

[2] 筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻)

[3]  5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図

  https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg  (2023.01.25参照)

 

 

【ジオコラム】

自然堤防:洪水時などに川が運んできた土砂が川の周囲にたまり自然にできる堤防です。その外側にできる軟弱な後背湿地より地形的に高く地盤も良いので、洪水にも免れることがあり昔から畑や宅地に利用されてきました。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

上位段丘・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地盤の上昇と地球規模の気候変動による海面の低下により生じた河川の浸食作用できた段丘です。段丘は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい)、中位段丘(同じく20数mくらい) 、下位段丘(同じく10数mくらい)に区分されています [4]。段丘を構成する地層の時代から、その形成の順序は下図のようになっていると考えられます。なお、図は模式的なもので具体的な地名に対応したものではありません。

 

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段採図(地理院地図より作成)

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地形分類図 

   

 5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図 「真壁」及び「土浦」の基図に、本コースのルートを加筆した。

【地形分類図の記号説明】

 M:山地、Hp:丘陵地、Ut:上位台地、M1・Mt2・:中位段丘、Lt:下位段丘、

 Ps1・Ps2・Ps3・Ps4:山麓緩斜面、S:崖および斜面

【基図の出典】 

   5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)「地形分類図」(1981)

https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg

 

 5万分の1都道府県土地分類基本調査(土浦)「地形分類図」(1982)

https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0805L.jpg