コース01  羽黒盆地-桜川の源流と里山の原風景を訪ねて ~ここが古東京湾の最奥部? 

                (初回公開:2023.12.10,最終更新日2024.2.13) 

 

コースあらすじ

  茨城県と栃木県の県境にある標高519.6メートルの高峯山(たかみねさん)へ登る途中に平沢高峯展望台(標高300メートル)があります。そこから南を眺めると、眼下に羽黒盆地や岩瀬盆地がまるで箱庭のように見下ろせます(写真)。盆地の中央には桜川の桜並木が見え、その向こうには磯部桜川公園の丘があります。

 ふと、こんな風景はいつかどこかで見たことがある気がしてきました。そうです、竜ケ崎市駅と牛久駅の間でJR常磐線の車窓からみえる景色や、つくばから成田空港へ向かう途中で車からみた、田んぼに浮かぶような丘の景色です。まるで松島や瀬戸内海の海に浮かぶ島々を見ているようだと感じたことを思い出しました。

 ということは、もしかしてここも、はるか昔には海があったのでしょうか? 磯部という地名は海と関係しているのでしょうか?

   

 このコースでは「つくばりんりんロード」最北端の岩瀬駅から出発し、岩瀬・羽黒盆地にひろがる台地や低地の地形と、桜川の最上流域を確かめながら走ります。里山や古い街並みを通りながら、人々がこのような地形をどのように利用して暮らしてきたのか、遺跡や神社・寺院などからその歴史を探ります。こんな山奥まで海があった証拠はほんとうにあるのでしょうか。さあ、それを探しにいきましょう。

 なお、このコースは距離的には少し長めで、起伏も結構ありますので、自分の体力や時間に合わせて、適宜コースを省略して巡ることをお勧めします。

コースデータ

  • 起点:JR水戸線岩瀬駅(旧筑波鉄道終点)駅前

   駅前に 桜川市観光協会のレンタサイクル拠点(高砂旅館)があります。

  • 終点:起点にもどります
  • 走行距離:約17km(鏡ヶ池オプションコースを除く)、高度差:約60m 
  • 所要時間:約5時間(走行時間は約3時間  )

コースマップと高低差

                        <地理院地図より作成>

 <起点からの距離と高低差>

<コースの詳細マップ>

   <Google Map>を使って現在地やコース周辺の地図をを詳しく見ることができます。近隣の観光地やレストランなどの情報もわかります。

<地形や標高などの詳細マップ>

    <地理院地図>を任意に拡大して地形の特徴を詳しく見ることができます。右下のマークを押すと現在地に移動します。中心位置(+)の標高が左下に表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

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レンタサイクルの利用について

 起点の岩瀬駅前にある高砂旅館で桜川市観光協会が運営するレンタサイクルを誰でも簡単な手続きで1日600円(ヘルメット付)で借りることができます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

岩瀬駅前レンタサイクル1台600円 | 桜川市観光協会公式ホームページ

 

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おもな見どころ

1. 起点<JR水戸線・岩瀬駅>

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 起点はJR水戸線・岩瀬駅の駅前広場です。つくばから岩瀬駅までは、筑波山口発の路線バス「やまざくら号」を利用すれば約1時間で到着します。自家用車なら、つくばセンターからおよそ1時間かかります。

  <開業130年を迎えた岩瀬駅と岩瀬市街の歴史>  岩瀬駅は明治22年(1889年)に水戸線(当時は水戸鉄道、水戸ー小山間)の開通とともに開業し、大正7年(1918年)には筑波鉄道(岩瀬ー土浦間)が開通してさらに交通の要所として発展してきました。

 駅前広場から富谷山(とみやさん)方面へ広い駅前通りが延びています。レンタサイクル事務所のある高砂旅館の高松さんの話では、岩瀬の町並みはもともとは駅北側の旧国道50号(水戸街道)や結城街道沿いにあったそうで、映画館や銀行など多くの商店が並んでいたそうです。現在の駅前広場は最近になって整理され、新しい国道50号沿いに大形スーパーや電器店・飲食店ができたためか、この辺りは何か寂しくなったような気がします。       

                   

                               

 走行前の自転車点検を済ませたら、さぁ出発です。自動車や交通安全に十分気を付けて走りましょう。                

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2. 「青柳の糸桜」と熊野神社

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<結城街道をへて青柳地区へ> 駅前広場から北へ100メートルほど進み、最初の十字路を右折すると結城街道に入ります。この辺りがかつてのにぎやかな商店街だったようですが、今は閉じたお店が多いように見えます。山王神社を左手にしばらく走ると旧国道50号(水戸街道)と合流しますが、またすぐにわかれて水戸線の踏切を渡り青柳地区に入ります。「今昔マップ」[1] で明治時代の地図を見ると、昔の桜川は現在より蛇行して線路ちかくを流れていて、結城街道(水戸街道)は線路の南側、つまりこの道を通っていたことが分かります。

 <謡曲「桜川」に謡われた「青柳の糸桜」> 踏切を渡ってさらに進むと右側に鳥居がみえ、最初の見どころの熊野神社に到着します。石灯篭のわきに大きな枝垂桜の古木がありますが、これが、かの能楽者世阿弥の謡曲「桜川」にでてくる「青柳の糸桜」です。春の満開時にぜひ訪れてみたいところです。樹齢500年と言われていますが、実際は磯部公園から何度か移植されたもののようです[2]。           

  <山麓のへりに祀られた熊野神社> 花こう岩で造られた一の鳥居をくぐり参道の階段を登ると小さな平坦地となり、木製の二の鳥居と、その先に拝殿と本殿があります。記録によれば平安時代の保元(ほうげん)2年(1157年)に創建された古い神社ということです[3]。     

                

 熊野神社は標高70-80メートルの小さな平坦地にあります。地形分類図 によればこのような地形は丘陵(Hp) あるいは頂部が平坦な丘陵 (Hs) に区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」、あるいはそれに相当する台地と呼ぶことにします。          

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3. 台地上に築かれた花園古墳群

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 <南北に細長く延びる舌状の高位段丘> 熊野神社と青柳の集落をあとにして、道端の二十三夜塔(にじゅうさんやとう)などを眺めながらのんびりと進むと、田んぼの向こうに上城(かみしろ)地区の小高い高台が見えてきます。

 この高台は標高が60-80メートルほどで水田とは高低差が10数メートルあり、南の山地の先端から1キロメートルほど舌状にのびる、頂面がほぼ平坦な台地状の地形です。地形分類図 を見ると、前の熊野神社とほぼ同じ高さの高位段丘に分類されています。

<市指定・花園古墳群二号墳> 高台の上には住宅や工場、畑が広がっていますが、東側の縁に市指定の花園古墳群の一つ、花園古墳群二号墳があります。

      

 古墳は竹やぶの中にあるので季節によっては見分けがつかないかもしれませんが説明看板が立っていますので場所はすぐ分かります。民家の庭先を通っていきますので挨拶をして通り抜けましょう。

                

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4. ハクチョウの飛来地、桝簑ヶ池(ますみがいけ)

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 舌状にのびた台地の間には水田が広がり、しばしばその上流部に溜池があります。友部地区にある桝簑ケ池(ますみがいけ)もそのような溜池の一つで、ここには12月頃になるとハクチョウが飛来することで知られています。もっとも、最近の温暖化のせいか、あるいはもっと餌が豊富なほかの池に移動したのか、最近はめったに見かけないという情報もあります。

 南の加波山が水面に逆さに映る景色は見事です。池の奥に公園がありますので、また改めてゆっくりと水際の植物やハクチョウなどを観察してみることにして、今回はそのまま通り抜けましょう。                         

  

[追記:先日、厳冬の朝早く出かけてみました。ハクチョウはいませんでしたがたくさんのカモが群がっていました。地元の方に伺ったところ、今冬は昨年の11月末頃に飛来してきましたが、その後しばらくしてどこかへ飛んで行ってしまった。年によっては3月頃まで、とどまっていることもある、とのことでした。2024年2月10日]

 

寄り道】

<台地先端の蕎麦畑> 今回のルートから少し外れるのですが、この舌状台地の北の先端に小さな神社がある高台があります。9月の末に行ったとき、神社の周りには蕎麦の花が満開で、遠くに富谷山や雨巻山が望める絶景がありました。台地は水はけがよいのでこのように蕎麦などの栽培に利用されています。畑の標高は約65mですから高位段丘の先端ということになります。        

       

 桝簑ヶ池を通り抜けて櫛の歯状に並ぶもうひとつの台地にあがると、大きな古い民家や道端に石碑がならぶ古くからある集落がつづきます。ふだんは人影も少ない静かな集落ですが、ときおり元気な高校生たちとすれ違いました。台地の中央にある日大付属岩瀬高校の生徒らしいですが、若者とすれ違うだけで、なにかほっとする活気を感じました。広い台地にはこのように学校が建てられることが多いようです。

                              

     

                                             

 台地の先まで進むとJR水戸線に出会ました。踏切を渡り線路に沿ってすすむと、左手に古い神社が見えてきました。 

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5. 東山香取神社とイワキリ様

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 神社の境内は標高が63メートルほどありますので、どうやら、これまで走ってきた高台はここまで続くようです。地形分類図 で見るとやはり高位段丘の先端であることが分かります。神社の説明では、水戸線の開業に際して社殿が少し北側へ移動したと記されていました。

 神社は総鎮守東山香取神社といい、神社の略記によると創立は神亀(じんき)元年(724年、奈良時代)で、その後、永禄(えいろく)2年(1559年、室町時代)に再建されたということですからそうとう古い神社のようです。神社の右隣には通称イワキリ様と称する祖霊社が並んでおり、この地域の石材採掘に携わる人たちの信仰を集めていたそうです。

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6. JR水戸線羽黒駅

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 線路に沿って東に進みJR水戸線の羽黒駅に立ち寄りましょう。駅の開業は明治37年(1904年)ということで、岩瀬駅より15年ほど後に建設されたことになります。今は無人駅ですが、駅前広場におしゃれな石標が立っているモダンな駅です。トイレもありますので休憩してさらに先へ進みます。

 羽黒駅は標高が約60メートルほどの台地上にあり、古くからの街並みもこのあたりにあったようですが、そこから駅前通りを北へ進むと少し低くなり、北関東の主要幹線である国道50号に出ます。あたらしい国道50号は旧市街地を避けて筑輪川に沿う田んぼの中(標高が53~54メートル)を直線的に走っています。

  

 なおまだ時間は早いかもしれませんが、もしこのあたりで昼食をとりたいときは、駅前、あるいは国道50号線沿いのレストラン、または50号線との交差点にあるコンビニを利用すると良いでしょう。これから進む先にはそのような店が見つかりませんのでご注意ください。

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7. 西小塙(にしこはなわ)市街地は更新世の台地上にある

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<旧国道50号に沿った昔からの街並み> 国道50号の北を流れる筑塙川から150メートルほど進むと旧国道50号(結城街道)との交差点があります。街道沿いには古くからある西小塙(にしこはなわ)の市街が並んでいます。この市街地は周囲の水田と比べるとわずかに1~2メートルほど高く、標高はおよそ55メートルです。車で通ればほとんど気が付かないと思いますが、自転車だとその差がよく分かります。

               

 今昔マップ[1]を見ると、かつてはこの街道沿いが羽黒の中心で村役場や郵便局があったことが分かります。現在は静かな通りですが、郵便局や神社がその面影を残しています。街道は緩やかにカーブをしていますが、もともとの自然の地形を反映しているのかもしれません。寄り道をして市街地を少し走ってみるのも面白いと思います。

<市街地の土台は自然堤防?それとも更新世の台地?> 交差点を通り過ぎて新しい農道との十字路にある広場から後ろを振り返ると、先ほどの西小塙の市街地が水田よりわずかに高いことがはっきり分かります。市街地にあった畑の土壌はローム  からできていましたので、この微高地は自然堤防ではなく更新世の台地であることが分かります。地形分類図  を見ると、台地は今から13~12万年前の海成の地層を土台にしできた上位段丘 (Ut) あることが示されています。

 海成の段丘ということは、この時代には海がこの地域を覆っていた、つまり今から13~12万年前には「古東京湾」という海が羽黒盆地の中心にまで広がっていたことになります。そういえば、かつて岩瀬の長方(おさがた)というところでたまたま国道50号の拡幅工事をしていて、こことほぼ同じ標高の台地に大露頭があらわれていたことがありました。そこでは海抜45メートル付近にきれいな海浜の砂層がありましたので、同じような海岸が羽黒盆地までひろがっていたのだろうと思われます。詳しくは本文末の【ジオコラム】を参照ください。

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8. 曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ) 

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 太古の海を想像しながらさらに北へ走ります。正面にまた高台が現れ、曜光山月山寺(ようこうざんがっさんじ)の山門が見えてきました。

 月山寺は、桓武天皇の代の延暦14年(西暦795年、平安時代初期)に法相宗の徳一大師により中群橋本(羽黒盆地の南にある現在の上城城跡あたり?)に創建されました。永享2年(1430年、室町時代)、光栄上人の代になって天台宗に改宗、以後天台宗の学問所として隆盛を極めたと伝えられています。関ヶ原の合戦以後、徳川幕府の厚い庇護を受け、当地に移転してからは関東における天台宗の中心として学問所を設けるなど大きな役割を果たしてきたそうです。数ある当山の末寺としては、この近隣でも富谷の小山寺や池亀の五大力堂、坂本の観音寺があるそうです

 当寺は秋の紅葉がたいへん美しいことで有名です。また境内奥には立派な美術館(平成元年設立)があり、国指定重要文化財の弁慶の網代笈(あじろおい)をはじめ数多くの文化財や美術品が展示されていて、学問所である月山寺の趣が今でも漂ってきます。普段は扉が閉まっていますが、入口のインターホンを鳴らすと1人でも快く開館していただけます(入館料300円)(月山寺パンフレットより)

      

<盆地中央の高位段丘群> 月山寺の本堂は標高が60メートル 弱の高台に建っていますが、東側にある鐘楼や千手室、ひろい墓地は標高が約6667メートル の平坦な台地の上にあります。境内は造成されているのでしょうが、もともとは周辺に並ぶ台地を含め、盆地の中央に広がる高さおよそ70メートル の広い台地だったと思われます。

 地形分類図では、これらの台地は頂部が平坦な丘陵 (Hs) として区分されていますが、ここでは便宜的に「高位段丘」と呼んできました。解説書によれば、高位段丘は今からおよそ15万年~50万年前に海の底にたまった地層を土台としてできたとされています。太古の昔、やはりこの盆地には海が広がっていたのでしょうか。

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9. 小野池(小ノ池、このいけ)

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 月山寺をあとに段丘の南縁に沿って東に進むと、西小塙方面からくる直線道路(小ノ池線)に出会います。さっき通った西小塙の方を振り返ると、上位段丘上の町並みや、さらにその東方に続く一段高い台地が見えます。地形分類図 にも示されているように、標高約70メートル あるこの台地は高位段丘です。

 小ノ池線を左折し台地に上がってみましょう。大きな小野池(小ノ池、小野調整池ともいう)が見えてきました。もともと台地の中の谷に堰を作ってできた人口の溜池ですが、現在は霞ケ浦用水系統につながっていて、霞ケ浦からポンプアップした水をためています[7]。この調整池によって羽黒地区の灌漑条件はずいぶん改善したのでしょう。

 池越しに南に見える山は加波山ですが、天気が良いと水面にそのシルエットが美しく映ります。最近では冬になるとハクチョウが飛来することもあるようで、桝簑ケ池から移住してきたのでは、との情報もあります。

 小ノ池の脇にある石材店のところから左にそれ、旧道を上っていくと左手に愛宕神社が見えてきます。神社に登る階段の足元に台地を覆うローム  層と軽石の地層が見えています。厚さ30センチメートルほどの黄褐色の粗い粒の地層が見えますが、これは「鹿沼軽石(Ag-KP)」とよばれる、今からおよそ4万4千年前に群馬県の赤城火山が噴火した時に飛んできた軽石層です[8]

        

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10. 田んぼの中の小川、桜川の上流

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 高位段丘を横断し北側の低地に出ると桜川の上流にであいます。川にかかる橋から見ると、このあたりの桜川は川幅がわずか1メートルほどで、流れもほとんど目立たないような田んぼの中の小さな小川でした。川底には細かな砂がたまっているところもありますが砂利の堆積などはほとんどなく、想像していた岩だらけの渓流とは全く違っていました。

 実は、ずっと下流の、つくば市を流れる桜川中流域を巡る散策コース(コース02)では、河原いっぱいにこぶしくらいの大きさの丸い砂利が堆積していました。河原の砂利は上流から下流に行くにつれ小さくなるのかと思っていましたが、何故、桜川では上流に砂利がないのでしょう。これについてはそちらのコースで詳しく解説しています。

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11. 農民一揆のリーダーを供養する義民地蔵」

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 県道285号線(富谷笠間街道)との交差点を右折するとすぐ、小塩駐在所の隣に「義民地蔵」が祀られています。江戸時代中頃の寛延2年(1749年)、この地域一帯で起こった農民一揆の首謀者として死罪となった、磯部村名主の清太夫、亀岡村の太郎左衛門、そして富谷村の佐太郎の3名を供養する地蔵菩薩です。

 記録[3]によれば、この年の秋、前年からつづいた冷夏による農作物の不作のため、年貢を納められなくなった地元27村の農民およそ1000名が、年貢の減免と延納を要求して笠間城下に押し寄せた農民一揆がありました。結局訴えは受けいれられず、首謀者が捕らえられ、月山寺などの仲介もかなわずに3名が処刑されたということです。しかしこれを機に、笠間藩は、その後さまざまな対策を施すようになったそうで、後世になってから3名の徳をしのび供養する地蔵菩薩が立てられ参詣されるようになったとのことです。

 富谷笠間街道をそのまま東に進むと桜川の源流とされる鏡ヶ池がありますが、少し距離があるので、今回はコースから外しオプションとしました。もし、時間と体力があったら最後の見どころ<18>として追加していますので立ち寄ってください。

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12. 高峯の山桜、絶景のビューポイント

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<山桜絶景ビューポイント> 義民地蔵のすぐ東を左折し、マップを見ながら小塩、池亀の集落を通りすぎます。平沢集落の標高80メートルと書いてある丁字路を右折すると、道路右手に「山桜絶景」と書かれた石碑に巡り合います。石碑の真ん中に四角い窓が開けられていて、どうやらそこから眺める高峯山の山桜が絶景のようです。桜川市観光協会のホームページやパンフレットには見事な写真が載っていますが、次の桜のシーズンに是非訪れてみたいと思います。

  

<桜川の源流風景> マップを見ながらさらに曲がりくねった坂道を登り中山の集落に入ると「高峯見晴デッキ」があります。途中はかなりの上り坂ですから、無理をせずに自転車を押して歩いて進んでください。

 お疲れさまでした。デッキの標高は114メートルで、ここが本コースの最高高度点です。

 デッキの正面右奥に見えるのが高峯山(519.6メートル)です。ここから見る山桜もきれいでしょうね。是非春のシーズンに訪れてみたいと思います。


 目の前の谷川には大きな砂防堰堤がありますが、そのせいか、谷には岩などはなく穏やかな小沢という感じです。地質図を見ると、このあたりに花こう岩が分布していますが、かなり風化して真砂(まさ)になっていることが多いので、このようになだらかな小沢になっているのかもしれません。

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13. 大神台遺跡(おおかみだいいせき)

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  展望デッキから南へ下ると急に視界が開け、広々とした台地の上に出ます。

 このあたりの方に聞くと、もともとは樹木の茂った林だったそうで、その後伐採され、今は畑などに利用されているとのこと。したがって台地の表面やヘリはかなり人工的に造成されているかもしれませんが、それでも、もともと広い台地であったことは間違いないと思われます。

 その畑のなかから、縄文時代の土師器、須恵器などの土器や、石皿、磨石などの石器が多数発見されたそうで、詳しくはまだ明らかになっていないようですが、原始から古代におよぶ、幅広い遺跡のようです。さらに近隣からは、平沢古墳群・まなか古墳群などの古墳がいくつも見つかっているそうです。

 台地中央の十字路に案内看板が立っていますので気を付けて見つけてください。

<大神台駅家跡(おおかみだいうまやあと)比定地> 大神台は古代からの交通の要所でもあったようです。常陸の風土記にもこのあたりに駅家(うまや)があったと書かれているそうです。

 駅家というのは街道筋に一定の間隔(この場合はおよそ30里間隔)で築かれた駅のようなものらしく、遺跡など確実な証拠が残っているわけではないですが、周囲の地名や古道の歴史などからこの当たりだと想定(比定・ひてい)されているようです。台地中央の十字路あたりは新しい道でしょうが、台地の南縁を回ってくる道は常陸国府(石岡市)と上野国府(栃木市)を結ぶ主要な街道だったのでしょうか。

<大神台は高位台地> 大神台の地形は標高が90mから110mで、南に緩やかに傾斜していますが、頂面がほぼ平坦な段丘面だと思われます。北側の山地の延長にあり、山麓斜面の堆積物もあるので、地形分類図 では山麓と区分されていますが、月山寺などで見てきた台地とほぼ同じ標高ですので、平坦部は高位段丘と考えても良いと思います。

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14. 天神様の山桜と磯部の高台

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<桜川上流の桜並木> 大神台の台地から南へ、亀岡の集落を通り過ぎ、右手に香取神社をみて、信号のある十字路に出ます。この地域を東西に結ぶ主要道路、県道289号(富谷稲田線)を横断して、前に見た(がっさんじ)方面に向かって県道257号(西小塙真岡線)を進みます。

 途中で再び、桜川上流にかかる「桜橋」を渡ります。桜川の左岸には桜の並木が続きますが、これが最初に高峯展望台から見えた桜並木ですね。さらに進むと磯部の高台が見えてきました。

   

<天神様の山桜> 近づくと、高台の縁に一本の桜の樹とちいさな祠が立っているのが見えます。見晴らしもよさそうですので、自転車を置いて登ってみましょう。

 上から眺めると、いま走ってきたコースがすっかり見通せて、台地や低地、桜川の様子がよくわかります。祠の脇には「天神様の山桜」の碑が立っています。あとで磯部稲村神社の宮司さんに伺ったところでは、神社から見て鬼門にあたるこの場所にはもともと天神神社があったそうですが、県道257号の切通をつくってまっすぐ伸ばしたときに取り壊された、ということでした。

<ここは典型的な高位段丘?> 標高がおよそ67-68メートルあり、山地からも離れた盆地の中央に広がるこの平坦な高台は、典型的な高位段丘でしょうか。この大きな切通を建設したときには、高台の地層が丸見えになる露頭が現れていたに違いないのですが、今はそれが見られないのが残念です。

 高台の上から県道沿いに南を見ると、300メートルほど先に工場らしい大きな建物が見えます。実は帰った後で調べたのですが、この建物を建設したときに地盤を調べるために掘ったボーリングの資料がありました。資料によれば、地表から深さ十数メートルの地下、標高ならおよそ海抜50メートルくらいになりますが、その高さに貝殻交じりの地層があることが報告されていました。

 貝殻が海の貝か、あるいはシジミのような海岸近くにある沼に棲む淡水の貝かは分かりませんが、いずれにしてもこの地層は、当時のほぼ海面付近の高さに堆積したものだと推定できます。

<もう一つのボーリング試料>  ここで県道を離れ、右折して磯部の高台に向かいます。右手の低地には岩瀬桜川運動公園が見え、左手の高台には桜川市立岩瀬東中学校があります。中学校のグランドが見えてきたあたりに、実はもう一本、防災科学技術研究所が地下に地震計を設置するために掘ったボーリングがありました。その資料でも、やはりグランドから16メートルから20メートル地下に、標高でいうとやはり海抜50メートルくらいの高さに、粘土層があって、中に貝殻片が含まれているという記録がありました。

 ということで、このあたりの海抜50メートルくらいの高さには、昔の海岸または海岸近くの低地にたまった地層が広く分布しているようです。したがってこの台地は、水平な地層を土台としてできた高位段丘ということができるように思います。

 さらに詳しくは末尾にある【ジオコラム】「台地の地下地質」の項をご覧ください。

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15. 磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ)

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 いよいよ磯部稲村神社につきました。

 神社の案内によれば、当神社は12代景行天皇(けいこうてんのう)の時代、景行40年(西暦337年)に伊勢の皇大神宮として創立され、その後この地に移祀されたとあります。このことについて、社務所におられた磯部宮司にお伺いしたことがありました。

 言い伝えでは、磯部宮司のご先祖が神社と共に、伊勢から鎌倉やつくばを経て当地にこられたそうですが、その年代などは明らかではない。当時、この地域は稲と呼ばれていて、もともとそこには稲村神社があったのですが磯部氏が来られたことでこの地が磯部と呼ばれるようになったのだという説明でした。そういえばつくば市にも磯部という集落があり磯部神社がありますね。

   

[ 追記:先日、つくば市の磯部に行ってみました。集落の西はしに集会場があり、その裏に石造の小さな祠がありました。地元の方のお話では、ここが磯部神社で、20年ほど前までは大きな社があったとのことでした。2024年2月11日]

 < 鯰の尾を押さえる石? >  本殿の左手に「要石(かなめいし)」と看板の立った小さな社がありました。説明によれば、当神社は鹿嶋市にある鹿島神宮の戌亥(いぬい)の方角、つまり北西の方角にある鎮守社としてあり、鹿島神宮が鰻の頭を押さえ、当社が尾を押さえて、古来より両神社で国土安泰・地震災難守護を果たしてきたと伝えられているようです。科学的根拠は別として、面白い言い伝えでしょうか。

 <ここで 謡曲「桜川」の原作がつくられた > 神社境内にはさまざまな種類の桜の樹があり桜のシーズンにおとずれれば楽しめます。何年も前になりますが、神社右手の林の奥で見事な枝垂桜の大樹を見たことを思い出します。

 古来からこれらの桜をめでる多くの歌や句があり、紀貫之はじめ様々なかたの歌碑や句碑が見られます。室町時代の世阿弥による謡曲「櫻川」は、永享10年(西暦1438年)に当神社の磯部佑行神主が時の管領足利持氏に献上した物語がもとに造られたという言い伝えは有名です。実際には諸説あるようですが、謡曲の内容や能についても、くわしくは文献[3] をみてください。

< 近くから大きなカキ化石が出土!! > 磯部宮司からいろいろなお話を伺ったなかで驚きの情報を得ることができました。宮司がおっしゃるのは「そういえば私の家で井戸を掘ったときに、穴の底から大きなカキの化石がたくさん出土しましたよ」と。「それは、昔の海面があった証拠ですよ」とお話しし、すぐに自転車で立ち寄ってみました。お宅は神社の東で少し坂道を下りたところの平坦地にありましたが、その標高は62メートルでした。井戸の深さは、正確には分かりませんが10メートルより浅いとすると、やはり、およそ標高50メートルくらいの位置に、かつての海面があったことは間違いなさそうです。

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16. 磯部桜川公園

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 神社を後に参道を南に進むとすぐに「天然記念物 桜川のサクラ」の碑がある磯部桜川公園が見えてきます。ここが本コース最後の<みどころ>です。

 これも宮司のお話ですが「昔は戦のたびに神社は要塞になって武士が立てこもり、今の公園の場所は馬場になりました。周囲には空堀が掘られ、今でも残っています」とのことでした。

    

 美しい山桜を集積する景勝地として古くから知られたこの公園の桜は、改めて昭和49年に国指定の天然記念物「桜川のサクラ」となりました。ヤマザクラはたくさんの種類があるようですが、この公園にはその中の11種ほどがあるそうです。景観だけでなく学術的にも貴重な植物として保護の対象になりました[6]。広い公園で駐車場もありますので、桜のシーズンにきてゆっくり鑑賞ください。

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17.終点・岩瀬駅

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 公園を出るとくだり坂になりますので、スピードを出し過ぎないよう気を付けて、一路スタート地点へ戻ります。

 途中、旧国道50号と交わるところで桜川の支流である塙川を稲荷橋で渡ります。このあたりの市街地は標高がおよそ52メートルとなっています。周囲の田んぼとの高度差は1-2mくらいしかないので見落としてしまいそうですが、地形分類図 をみると、ここは西小塙からつずく上位段丘 (Ut) として区分されています。およそ13万年前~12万年前に海面の高さが最も高くなった時代の「古東京湾」はこのあたりまで広がっていたのでしょうか。

 さあ、ここからは旧国道50号に沿って出発点の岩瀬駅まで戻ります。最後まで交通安全に気を付けて走りましょう。

お疲れさまでした。

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オプションコース>
18.桜川の源流「鏡ヶ池(かがみがいけ)」

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<桜川の源流を探る> 見どころポイント<11.義民地蔵>から県道289号(富谷稲田線)をさらに東に進むと、桜川の源流と言われる「鏡ヶ池」につきます。ゆるやかな登り坂になるので、今回は体力と時間に余裕のある場合のオプション・コースとしました。ときたま大型車両も通るので十分注意しながら走行してください。

 小川のような桜川に沿って2.7kmほどすすむと道路が大きく南へカーブする角に「鏡ヶ池」があります。水草の茂る小さな池ですが、新緑や秋の紅葉が美しく、池の水が年中枯れることがないとして古くから親しまれてきたそうです。

 池の脇の山道を500メートルほど登ると鍬柄峠(くわがらとうげ、標高172.2メートル)があります。そこが隣の笠間盆地との分水嶺です。このように桜川源流の集水域はほんのわずかな範囲だということが分かります。にもかかわらず、鏡ヶ池は年中涸れることがないというのは、いったいなぜなのでしょうか。

 なお参考までに、桜川水系の上流の分水界で最も標高が低いのは桜川市と笠間市の間の約85mで、次が石岡市との間の板敷峠の89.9mです。板敷峠の先は恋瀬川上流で水は霞ケ浦へ流れていきます。

 

 

 

 < 真っ白な山砂の産地> それでは来た道をもどりましょう。今度は下り坂なのでずっと楽です。

 途中の道路わきに、山を崩して真っ白な砂を採取している作業場がありました。白い砂は、実は花こう岩が長い年月をかけて風化してできた「真砂(まさ)」と呼ばれる砂です。よく庭園や校庭に敷かれることがあります。そういえば月山寺の枯山水の庭園にも使われていましたね。

 もとは堅い花こう岩であった証拠に、周りが風化して、中心がおむすびのように丸く残った花こう岩も転がっていました。真砂は石材の花こう岩と共にこの地域の重要な産品として販売されています。

 ちなみに、このあたりの地質図を見てみましょう。鏡ヶ池を含め周囲一帯が花こう岩でできていることが分かります。鏡ヶ池が年中枯れないのは、このような真砂の山に大量の地下水が貯留されているからかもしれません。

<のどかな桜川の最上流部> 桜川の最上流部が道路と交叉するところが何カ所かあります。橋のたもとに自転車を止めて、川底を見てみましょう。きらきら光る真砂だけが川底にたまっている、ほんとうにのどかな小川でした。 

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<あとがき>

  今回は、羽黒盆地の全体を巡る、距離も長く起伏も結構あるややハードなコースでしたが、いかがでしたか。まずはお疲れさまでした。

 はじめ高峯山の展望台から見たとき、もしかして、羽黒盆地が太古の昔に海であった証拠が見つかるかもしれない、磯部という地名も何か海に関係するかも知れない、との期待がありました。結果的には、このコースでは海の地層の露頭などの直接的な証拠はみつかりませんでした。

 しかし、実際に現地の地形を見ながら、すでに公表されている文献や調査記録を改めて調べてみると、太古の海「古東京湾」がこのあたりに存在した可能性がいくつも指摘されていることがわかりました。磯部稲村神社の磯部宮司からのお話も、海の存在を示唆していると考えられます。もちろん、本当に海面下だったのか、ただ海の近くの低地だったのかなど、厳密にはいろいろ議論もあるようですので、今後さらに調査や研究が行われると良いと思います。

 また、今回の「りんんりんジオ散策」を終えて、新たな疑問もうかんできました。なぜ小さな桜川の上流にこのように広い盆地ができたのか? なぜ「高位段丘」が広く見事に残っているのだろうか? などです。風化した花こう岩は侵食されやすいためなのか、海による侵食作用は河川以上に激しいためなのか、後の時代に大きな河川が近くになかったので元の地形が残されたのか、など、あたらしい課題も増えたように思います。

 古代の街道から、鉄道や新しい道路の建設など、この盆地の地理や地形の特徴がいつの時代にも活かされ、人々の歴史とその変遷に大きなに影響を与えてきたようなのも面白かったです。

 ということで今回も「りんりんジオ散策」の魅力を十分味あうことができたと思います。途中でいろいろなことを教えてくださった、地域の皆さんに感謝いたします。

<完> 

【謝 辞】日ごろからご指導いただいている下記のメンバーの方々に感謝いたします。

   ・つくば里山研究会

   ・ジオトレアカデミー

   ・筑波山地域ジオパーク推進協議会

 

近隣のおすすめグルメ店、コンビニ店

  • あじさい(うどん屋)  桜川市友部 1037-2 tel : 0296-76-2088

  • 魚勝(蕎麦店)   桜川市西小塙 845-2   tel : 070-4105-4564

  • らーめん「美春」    桜川店桜川市友部 tel : 0296761835



  • 札幌ラーメン「道産嫁」  桜川市西小塙543

  • インドネパールカレー 「レストランラージャ」 桜川市友部895−1

  • 「ミニストップ 岩瀬羽黒駅入口店」 桜川市友部字関田973−1

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【参考資料】 

本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.12.20参照)

[2]【桜川市】 桜川の糸桜

    https://sakuraibaraki.localinfo.jp (2023.10.23参照)

[3] 岩瀬町編(1987) 岩瀬町史 通史編

[4] 5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真岡」

  この地域の図面は【ジオコラム】を参照

[5] 桜川市商工観光課発行(2023) るるぶ特別編集「桜川市」

     https://www.city.sakuragawa.lg.jp/data/doc/1679552169_doc_36_0.pdf  

   (2023.12.10参照)

[6] 桜川市商工観光課発行パンフレット 「さくらめぐり」

   http://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000508.html

[7] 霞ケ浦用水事業について、 茨城県ホームページ

  https://www.pref.ibaraki.jp/nourinsuisan/nishinourin/tochi/jigyo/tochikai/kasumigaura-irrigachion-project/index.html   (2023.12.10参照)

[8] 小松原純子・大井信三 (2020) 鹿沼軽石 (Ag-KP) の噴出年代、地質ニュース、

    Vol.9, 315-316

【ジオコラム】

地質図

下図は[「シームレス地質図V.2」の本コース周辺の地質図上に、コースのルートを加筆して作成。地質図の説明記号は下記の「20万分の1地質図幅「水戸」(第 2 版)」による。

  出典: https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441 

      (2023.04.05参照)

  出典:吉岡敏和・滝沢文教・高橋雅紀・宮崎一博・坂野靖行・柳沢幸夫・高橋  

      浩・久保和也・関 陽児・駒澤正夫・広島俊男  (2001) 

       20万分の1地質図幅「水戸」 (第 2 版)

【地質図の記号説明】 

 Ig:稲田花こう岩、Js:ジュラ紀付加コンプレクス(八溝層群)砂岩、

 Jsm:同砂岩泥岩互層など、Sk:境林層及びその相当層(礫・砂

 および泥、中期更新世)、tm:中位段丘堆積物

花こう岩:地下深い場所(地下数キロから10キロメートル)で高温のマグマがゆっくり冷えて固まった火成岩の一種。含まれる鉱物の違いで石英などケイ酸塩鉱物の多い白っぽい花こう岩とケイ酸塩鉱物の少ない黒っぽいはんれい岩とに分類されます。

真砂(まさ):花こう岩(類)がその場で風化してできた白色~淡灰色の砂、およびそれが移動して堆積した堆積物(真砂土ともいう)です。小さな岩石片から成る粗い砂から粘土のような細粒分を含むものまであり、一般に土木機械で容易に掘削できます。風化し残った元の花こう岩が丸い核のように残っていることもよくあります。風化してできた粘土はカオリンを多く含むので陶磁器の主要な原料となります。

更新世(こうしんせい):地質時代の区分で、今から258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です

 

地形分類図:5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真岡」を基図にルートを加筆して作成

【地形分類図の記号説明】

M:山地(起伏量100m以上)、Hp:丘陵(起伏量100m以下)、Hs:丘陵頂平坦面、Ut:上位砂礫台地、Mt:中位砂礫侵食段丘群、Lt:砂礫侵食段丘群、P:谷底平野と後背湿地

丘陵、頂部に平坦面を持つ丘陵:山地に対する平野の地形は高さの順に「丘陵・台地・低地」に区分されます。山地より低く台地より高いおよそ100mより低い起伏を丘陵とよびます。地形分類図の説明によれば、「羽黒盆地では丘陵の延長上に頂部に平坦面をもつ丘陵が良く発達する。このような平頂な丘陵は標高が60m以上あり、海成の砂層や泥層を含む多摩期(更新世中期)の海進に伴う海成堆積層で構成される。友部地方の友部層と同時代の小内湾ないし入り江の地層と考えられる」と記載されています。

高位段丘:本文では、「頂部に平坦面を持つ丘陵」を便宜的に「高位段丘」と呼んでいます。

上位段丘:地形分類図の説明書によれば、 羽黒盆地の上位台地・段丘(Ut)については「今から13-12万年前の下末吉海進の海進に伴う谷埋め堆積物や、貝化石を含むシルト・粘土層など沿岸の入り江ないし湖沼の堆積物からなる台地で、表層を鹿沼軽石層(Ag-KP,4.4万年前)をふくむローム層でおおわれる。貝化石層の分布上限は標高45m付近となる」と記載されています。

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台地の地下地質

 少し専門的になりますが、<みどころ14.>でふれた台地の地下地質についてもう少し詳しく見ててみましょう。

 下図のA,B 2か所のボーリングのデータには、この地域の地下十数m(標高50m付近)には、昔の海底または海岸付近の低地で堆積した地層が広く分布していたことが示されています。

<ボーリング位置図>

<ボーリングによる地下地質柱状図>

ボーリングデータは下記の「ジオステーション」から公表されています。

   出典: https://www.geo-stn.bosai.go.jp/mapping_page.html

コース 02 段丘上に発展した北条の街並み ~北条用水をたどる

                        <最終更新 2023.06.07>

コースあらすじ

  つくば市北条に行ったことはありますか。中心の街道に並行して一段低い坂の下を「裏堀」と呼ばれている小さな用水路が流れています。何と鎌倉時代初期にこの地一帯をおさめていた多気太郎義幹が耕地開発や防衛のためにつくったものだと言い伝えられている歴史的な水路です。

 このコースでは筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)から出発し、この裏堀(北条用水)の取水口をもとめてまず桜川の禊橋(みそぎばし)へ向かいます。そこから水路をたどって義幹の墓のある北条まで下り、水路が地形を巧みに利用してひかれていることを確かめます。北条の街が段丘の上にあることを確かめ、さらに北側の一段高い台地が太古の海の底だった痕跡を見て、台地の地形を利用したブドウ畑、平沢官衙遺跡を訪れます。北条大池を通って台地縁に残っている古墳の遺跡を見たあと、最後は旧筑波鉄道の「常陸北条駅」に向かいます。あとはつくばりんりんロードで起点の筑波山口駅まで一気に戻ります。北条用水をたどって大地の成り立ちと北条や平沢の歴史を探ってみましょう。

コースデータ

  • 起点:筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)。つくばりんりんロード筑波休憩所として駐車場,レンタサイクル,トイレ・休憩所があります

  • 終点:起点にもどります

  • 走行距離:約14km、高度差:約20m

  • 所要時間:約3時間(走行時間は約1.5時間  )

地図と高低差

<地理院地図より作成>

 

<起点からの距離と高低差> <段採図はこちら

<Google Map>を閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。

    

<地理院地図>下から地理院地図を閲覧できます。十地点の標高がわかります(左下⇒)。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

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レンタサイクルの利用について

 起点の筑波山口駅事務所でレンタサイクルを借りることができます。誰でも簡単な手続きで1日500円でヘルメットと自転車を借りることができます。詳しくは下記のホームページをご覧ください。

  つくば市レンタサイクル | つくば市サイクリングガイド

主な見どころ

*本文中の[ ]内数字は【参考資料】の番号に対応しています。アンダーライン(または青字)の用語は【ジオコラム】に解説があります。

1. <起点>筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)

地図を見る

 コース起点の筑波山口駅は旧筑波鉄道「筑波駅」の跡です。ちょうど路線の中間地点にありました。昔のホームや駅舎の一部が残っていて駐車場やトイレ・休憩所があります。駅の事務所でレンタサイクルを借りることができます。準備ができたら出発しましょう。

  

 <禊橋よりあとにできた新しい桜川> りんりんロードを北に進みすぐ左折し旧道を通ってから県道14号交差点を横断、桜川に向かいます。桜川にかかる禊橋(みそぎばし・1986年3月完成)の中央で下流方向を見ると、川の左岸に古い桜川の跡が見えます(写真・本流との境に小さな堰がある)。「今昔マップ 関東1988-2008」[1] で昔の地図を見ると、いまの禊橋と蛇行した古い桜川が描かれています(下図)。つまり、橋下のいまの桜川とダムは橋が完成した1986年の後に人工的に作られたものであることが分かります。

   

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2. 桜川中流ジオサイト

地図を見る

 <北条用水の取水口> 橋をわたってすぐ左折、右岸堤防の広場にでると、筑波山地域ジオパーク推進協議会 [2] が設置した「桜川中流ジオサイト」の看板が見つかります。目の前のバルーン堰は灌漑期(4月初めから8月終わり)にだけふくらみ、満水になると堰のすぐ手前にある鉄格子の取水口まで水面があがります。満水時の水面の高さは堤防の標高(約18m)から推定するとおよそ17mくらいでしょうか。これが北条用水の取水口でここから北条まで水が流れるしくみです。ちなみに、上で見た改修前の地図をみると、昔の堰と取水口はは蛇行した桜川のすぐ下流にあり、その先は今とほぼ同じ水路を流れていたことが分かります。

 <河原の石は昔の鬼怒川由来> 灌漑期以外はダムの底には広い河原が現れ、いろいろな種類の礫(丸い小石)を観察できます。解説看板によれば、この礫は昔このあたりを鬼怒川が流れていた時に日光地域から運ばれててできた礫層に由来するものとの説明があります。河原に下りるときは足元に十分注意しましょう。 

 

 <桜川の洪水と微高地> 解説看板には1986年の台風10号による桜川洪水時の空中写真があります。それによるとこのあたりの低地一帯は洪水で冠水しましたが、いくつかの集落は洪水を免れた様子が分かります。このような集落に行ってみましょう。

 旧道をたどっていくと洪水から免れた集落の一つ中菅間地区に入ります。ここは古代の遺跡(菅間稲荷塚古墳、6世紀後半頃)が残るほどの古い集落のようで [3] 、 いまは宅地や神社・畑地になっています。畑の土は少しローム質なので更新世下位段丘だと思われます。まわりの水田が標高17mくらいなのに、それよりほんの1-2m高いことで洪水を免れていたわけです。

 

 <桜川の原風景> 集落をぬけ、昔の街道らしい旧道にでて桜川にかかる中貫橋を渡ります。木製の欄干の橋で(さすがに橋げたは鉄骨ですか)、ここから上流を見ると、なるほど、もともとの蛇行する桜川の様子がよく分かります。川岸は河床から2-3m高い自然堤防でしょうか。北条用水はこのような自然堤防の上を流れていると思われます。

 

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3. 北条用水

地図を見る

 <古い集落を流れる北条用水> 中貫橋を渡り左岸側の堤防を越えてしばらく進みむと大貫地区に入り、ここに北条用水にかかる小さな橋があります。地図を見ると橋の標高は18mですから、用水が桜川左岸の自然堤防の上をほぼ水平に流れていることがわかります。

 <寄り道:コースからはそれるのですが、この橋から用水路に沿って250メートルほど上流で(草が茂って自転車でいくのは難しいかもしれません)、北条用水が東の神郡から流れてくる逆川の下をくぐるところがあります。現在はコンクリートでできたサイホンの施設ですが、昔はどのように交叉していたのか想像してみましょう。>

  <神郡(かんごおり)条理遺跡> いかにも古い歴史を感じさせる大貫の集落を通り過ぎると県道14号の交差点に出ます。信号を渡り神郡方面に向かう田んぼの中の直線道路を東に進みます。素晴らしい美田が広がりますが、弥生時代の水田の遺構(神郡条理遺跡)が近くで発掘されているそうです。発掘の時、摩耗した弥生式土器が偶然に見つかったそうです。桜川の洪水で近くの微高地から流されてきたのかも知れないと考えられているようです[3]

 <水田にそびえる筑波山の絶景> いずれにせよ2000年ちかくずっと人々がこの土地を耕しつずけてきたわけですから本当に驚きです。ここから眺める筑波山南麓のパノラマは絶景の一つですが、なぜ田んぼの中からいきなり877mの山がそびえているのでしょうか。

 

 <寄り道:これも別コースですが、大貫の北条用水にかかる橋から用水路に沿って下流にすすみ、杉木の県道14号交差点まで走るコースもおすすめです。北条用水が周囲の水田より2-3mの高さに造られていることがよく分かります。ただ、車は通らない道なので冬場以外は路面に草が繁って走りにくいかもしれませんので注意してください。>

 りんりんロードにでたら北条に向かって南下、旧筑波鉄道の杉木駅があった交差点にでます。ここで北条用水と交叉するので気をつけて走りましょう。

 <自然堤防から洪積世の段丘上へ流れる用水> 周囲の田んぼはだんだん低くなり標高15-16メートルほどですが北条用水はほとんど水平のままです。このあたりからは自然堤防から乗り換え、洪積世の段丘の縁を流れていると考えられます。

 北条市街に入る直前に「多気太郎義幹の墓入口」の案内看板があります。斜めに左折して坂道を登っていくとまた北条用水に出会います。たしかに一段と高い段丘の上を流れていることがわかります[4]

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4. 多気太郎義幹の墓

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 <鎌倉時代にどのように設計されたのか> 北条用水は鎌倉時代初期に多気太郎義幹により耕地開発や街を守る防衛のために造られたと伝えられていますが、北条の高台に水を引く設計や測量はどのようにされたのでしょうか。桜川一帯を支配していたからこそできたのだと想像されれますが、義幹の墓が用水を眼下に見下ろす高台にあることも興味深いです。

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5. 街中の北条用水(裏堀)

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 <台地の地形を利用した北条の街並み> 北条の市街は高さの異なるいくつかの段丘上に発展しているようにみえます。 仲町の中心市街地は標高が20m近くにありますが。北条用水は中央通りより低い標高16m位の裏街を東に流れています。明瞭ではありませんが高さの違う段丘面があるように見えます(河川の浸食斜面上の地形という解釈もあるようです [5]。) いずれにせよ北条用水はここまで来ると桜川本流(河床の標高は13mくらいか)とは大きな標高差ができています。

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6. 北条の街並み

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 <交通の要所だった北条の街> 古い民家や商店が並ぶ北条の中心市街は、江戸時代ころから街道筋の街として栄えていたようです。仲町の交差点角に「ここよりつくば道」の大きな道標がありますが、最初のものは正徳5年(1715年)に建てられたそうです。石碑の土台に刻まれている「小澤惣兵衛」は当時の大きなお店だったのでしょうか。北条では米のほか醸造品、大豆や綿、油なども盛んに取引されて定期的に市が立っていたようです [3]

 

 仲町の中ほどに「北条ふれあい館(旧田村呉服店)」という古民家の無料休憩所がありますのでお話を聞くことも楽しみです。

 

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7. 八坂神社

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 <台地の縁にある古墳> 仲町を過ぎて鍵状に折れ曲がった角の高台に八坂神社があります。もともと台地の縁にあった円墳が土台にあったそうです(八坂神社古墳)[3]。神社の左手には古い石造五輪塔があり県指定工芸品に指定されていて、地輪には経筒が収められていた穴の跡があるそうです。

 <上位段丘に登る> 八坂神社前のかぎ型の曲り角を過ぎてさらに東へ200mほど進むと大きなT字路に出ます。そこを左折し、比高(標高の差)が10m以上ある坂道を登っていきます。かなり急ですので自転車を押して歩いて進むと良いでしょう。上に広がるひろい台地は中台の台地と呼ばれ標高は約30m以上あります(上位段丘)。次のみどころポイントへ行く前に台地上の畑を散策してみましょう。ローム質土壌のブドウ畑や野菜畑になっています。

 <桜川沿いで最大の上位段丘> 桜川流域全体でもこのように広い上位段丘が広がっているのはこの中台台地のほかには見当たりません(最上流の岩瀬盆地は別として)。なぜ桜川左岸のこの場所で広い台地が残っているのか、本シリーズを通して考えてみたいと思います。

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8. 古東京湾の地層

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 <むかし海であった証拠は何か> 公民館がある十字路に戻ります。公民館の敷地に駐輪しフェンス越しに向かいの民家裏にある小さな崖(露頭)を見てみましょう。粒のそろった黄褐色の細かな砂の層が見えます。これは昔の海岸近くにたまった砂層で、ここがかつては海の底だったことがわかります 。近隣の別の露頭では波打ち際に棲んでいた特徴的な生物の痕跡(白斑状生痕化石)もあります。

 <美しい筑波山の秘密がわかった!> 実は、関東平野の広い範囲でこのような海が広がっていた証拠が見つかっていて、その海は約13万年前~12万年前にあった「古東京湾」とよばれています。古東京湾がこのように山麓のすぐ近くまで迫っていた場所は関東平野ではほかにありません。類まれな筑波山の美しい景観の秘密はまさにそこあるといえるのではないでしょうか。

 

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9. ブドウ畑

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 <台地の新たな土地利用> 砂地の台地は水はけがよいのでブドウ栽培に適しているのか最近になってワイナリーもでき、地元産ブドウ酒の生産が始まりました。筑波山麓にはほかにもこのような台地を利用したブドウ栽培が盛んになっており、新たな土地利用の形が見れます。

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10. 平沢官衙(かんが)遺跡

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  <古代の土地利用> 今から1000年以上前の奈良・平安時代の筑波郡役所(官衙)跡で昭和50年ころから発掘調査がされ、建物の一部が復元されています。全国的にも数少ないこの時代の遺跡だそうで国の史跡に指定されています。台地の上は穀物や織物など物資の貯蔵に適していたのでしょうか、大規模な高床式倉庫群が並んでいます。堀立柱の礎石にはどんな種類の岩石が使われたのかも注意してみてみましょう。約半分は変成岩、半分が花崗岩でいずれもすぐ近くの筑波山麓に産出する岩石です。

 歴史広場には休憩所や売店、トイレがあり一休みできます。宝篋山の登山口でもあり様々なパンフレットが置かれているので立ち寄ってみましょう。隣にあるジオパーク解説看板にはこのあたり一帯が「古東京湾」の海岸だったことが説明されていますので見てくだい。

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11. 北条大池

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 筑波山麓でも人気の桜の名所で、水面に映る筑波山や宝篋山は絶景です。農業用灌漑池として江戸時代以前には作られていたようですが台地の地形を巧みに利用している様子をみてみましょう。真ん中の小さな島は地元では「弁天様」と呼ばれているそうです。

 

 新町のバス通りにでたら信号を渡りバス通りを西へ300mほど進むと「平沢入口」のつくバス停留所があります。細い小道を右折し50mほどすすむと数mの比高がある台地があらわれ、その縁に古墳がすぐ見つかります(看板などはありません)。

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12. 中台1号墳

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 <台地縁の古墳群> 中台1号墳です。これは北条や平沢周辺に集中して分布する横穴式石室古墳群の一つで、古墳時代はこのあたりが最有力豪族の本拠地だったことを示すと考えられているようです [3]。桜川低地や対岸の筑波台地まで一望できる台地の縁に多くの古墳群が分布するのは、当時の豪族の権威を示そうとした意味があるのかもしれません。

 <平沢は古墳石材の産地だった?> 石室の石材は周辺山地にある変成岩(雲母片岩)ですが、1億年以上も前に海底にたまった砂岩などの堆積岩が、その後地下深部の圧力やマグマの熱で変成した板状の岩石です。古墳時代、平沢地域は埋葬石材の主な産地だったようで、千葉県あたりの遺跡でも使われていたそうです[6]。手で触って硬さやきらきら光る鉱物の様子を確かめて見ましょう。

 <再び北条用水に出会う> バス通りに戻り街中の小道をどんどん西へすすむと角に大きな石碑の立った昔の駅前通りにぶつかります。ここで再び北条用水に出会いました。このあたりの標高は16-17mですから用水面は15-16mくらいでしょか。つまり用水の水は取水口からここまでほぼ水平に流れてきて、この先で広い水田に配水されているわけです。

 <筑波山地域ジオパークの拠点> 南に向きを変えた北条用水に沿って最後の見どころに向かいます。途中で旧筑波東中学校の門の前を通りますが、2023年秋にはここに筑波山地域ジオパーク推進協議会の拠点施設が移転する予定です。完成したら筑波山地域ジオパーク全体の情報を得ることができるでしょう 。

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13. 旧筑波鉄道「常陸北条駅」跡

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 <今は寂しい常陸北条駅跡> 常陸北条駅跡に到着。すぐ南には県立筑波高校があり、北側には広い駅前通りが残っていて側線のホームもあります。今は寂しい駅前ですが、かつては北条の玄関として通勤や通学・観光客でにぎわったのでしょう。

 ここから起点の筑波山口駅までつくばりんりんロードで一気に戻ります。約4kmありますが、りんりんロード一番のビューポイントで筑波山を見ながら走りましょう。

お疲れさまでした!

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近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができますので、お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の[ ]内の数字と対応しています。

[1] 谷 賢二 「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.01.25参照)

[2] 筑波山地域ジオパーク推進協議会ホームページ

    https://tsukuba-geopark.jp/  (2023.01.26参照)

[3]  筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻・下巻)

[4]  5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図

  https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg  (2023.01.25参照)

[5] 宇野沢昭ほか (1988) 2 万5 千分の1 筑波研究学園都市及び周辺地域の環境地質図説
         明書、特殊地質図(23-2),地質調査所,139p.

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441  (2023.01.25参照)

         地質図は上のWebサイトから、「地質図幅選択」⇒「各種シリーズ」⇒「特殊  

   地質図」⇒ 「筑波研究学園都市および周辺地域の環境地質図」を選択ください。

[6] 浅野孝利(2022)石棺・石室石材から見た古墳時代常総地域の流通,筑波大学 先 

  史学・考古学研究 第33号 33-59

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【ジオコラム】

自然堤防:洪水時などに川が運んできた土砂が川の周囲にたまり自然にできる堤防です。その外側にできる軟弱な後背湿地より地形的に高く地盤も良いので、洪水にも免れることがあり昔から畑や宅地に利用されてきました。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

上位段丘・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地盤の上昇と地球規模の気候変動による海面の低下により生じた河川の浸食作用できた段丘です。段丘は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい)、中位段丘(同じく20数mくらい) 、下位段丘(同じく10数mくらい)に区分されています [4]。段丘を構成する地層の時代から、その形成の順序は下図のようになっていると考えられます。なお、図は模式的なもので具体的な地名に対応したものではありません。

 

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段採図(地理院地図より作成)

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5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図 「真壁」及び「土浦」

 

 

コース 02-1 (追加コース) 広大な桜川低地を横断 ~低地の中の小集落と化石カキ礁を訪ねる

 


                                   <最終更新 2023.06.07>

コースあらすじ

  <コース02>の「おまけコース」です。時間にゆとりがあったらつづけて走ってみましょう。

 <起点>はコース02の「13.常陸北条駅跡」です。りんりんロードの桜並木を南下して途中から桜川低地を一気に桜川まで横断し、あとは左岸堤防にそって北上するコースです。古鬼怒川がつくったとされる幅広い低地の地形と低地の中の微高地に栄えた歴史ある君島地区、泉地区、小泉地区をおとずれ、途中で桜川の河原に下りて約13万年前の化石カキ礁を遠望し、最後はりんりんロードに戻ります。

 一部、堤防上の砂利道を通ります。草が生えていたり、雨あがりには水たまりを通ることもありますので気を付けて走行しましょう。

コースデータ

  • 起点:旧筑波鉄道「常陸北条駅」跡

  • 終点:りんりんロード交叉点

  • 走行距離:約 6 km、高低差:約 3 m

  • 所要時間:約1時間

地図と高低差

<地理院地図より作成>

 

 

<起点からの距離と高低差:断面図> 

  

 

<Google Map> グーグルマップを閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。 

www.google.com

<地理院地図>下から地理院地図を閲覧できます。十地点の標高がわかります(左下⇒)。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

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主な見どころ

*本文中の[ ]内数字は【参考資料】の番号に対応しています。アンダーライン(または青字)の用語は【ジオコラム】に解説があります。

14. 桜川低地

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 <「古鬼怒川低地」の中にできた桜川低地> 「常陸北条駅跡」を出発、りんりんロードを約1.4km南下します。道の両側には桜並木がつづき、おそらく沿線でも最高の花見コースの一つでしょう。ひろい農道(左側の送電線鉄塔が目印)に出たら大きく右折し、そこから桜川低地を一気に横断して桜川堤防めざして進みます。桜川低地の幅はこのあたりで約1.5kmちかくもあり、現在の桜川の規模にしては異常に広いことからも、昔の鬼怒川(古鬼怒川)がこの低地を流れていたと考えられています[1]。「親の遺産を子が引き継ぎ」ということなのでしょう。

 農道の途中でとまり水田の向こうにそびえる筑波山のすばらしい雄姿を眺めてみましょう。田植えの頃や稲が実る収穫時期の景観は最高です。



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15. 君島の集落

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  <低地の中の微地形・微高地に注目> 現在の桜川はこの幅広い低地の真ん中を流れるのではなく、むしろ右岸側(西側)の筑波台地(中位段丘、標高25-30m)のへりに沿って流れています。もういちどコースの高低差を示した断面図をみてください。りんりんロードと農道との分岐点(標高15.5m)から西に向かってどんどん低くなっていき、君島地区のちかくで一番低くなっている(約12m)ことが分かります。微妙な傾斜ですが自転車で走っていても気が付くかもしれません(風さえなければ)。

 さらに段採図をみると、低地の中にも微妙な起伏があり昔の桜川の蛇行跡や自然堤防の跡があるのが分かります。現在は大規模な耕地整理によって人工的にかなり改変されているでしょうが、桜川が蛇行しながら徐々に西へ移動していき、現在の筑波台地を直接削ってきたことが想像されます。

 君島地区は筑波地域もではたいへん古い歴史をもった集落です。街中を走ると古い住宅や神社やお寺があります。畑の土を見るとローム質であることから、桜川低地のなかのこの微高地(標高は約13m)が更新世下位段丘群のひとつであることが確認できます。

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16.山木の化石カキ礁

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 左岸堤防上の道を進みながら桜川の河床を観察しましよう。君島橋の上から見ると右岸の筑波台地との関係が良く分かります。

 <桜川流域で最も古い時代の地層> 県道を横切り堤防上の砂利道を700mほど進むと模型飛行機発着の広場が現れます。さらに50mほど進むと河原へおりる小道があり河床から2-3m高い広場で自転車を降ります。そこから対岸の水際をよく見ると水面すれすれに白い化石が密集している地層が遠望できます。

 <約13万年前の海水面の証拠>これらはマガキの化石で棲息したままの状態で残っている部分もあります。このことは、かつてこのあたりが内湾の河口ふきんで海抜ゼロメートルちかくだったことを示す貴重な証拠です。地層の時代は桜川流域では最も古い今から約13万年前で、このころ氷期が終わり急に気候が温暖化して海面が上昇し、広い海(古東京湾)が拡がってきたことを示すと考えられています。

 現在この場所の標高は約12mですが、当時の海水準面(海抜ゼロメートル)がなぜこの高さにあるのか、いろいろ想像してみましょう。

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17泉子育観音 慶龍寺

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 <低地の中の微高地で栄えた集落> 桜川左岸をさらに北上、県道を横断するトンネルをくぐると、かつては泉村と呼ばれた古い集落に入ります。ここも立派な古民家が並んでいます。地面の標高はおよそ14m、目の前の桜川河床や周囲の水田よりほんの1-2mだけ高いところですが、よく見ると畑地の土壌はあきらかにローム質で、この微高地も更新世の下位段丘だと思われます。

     

 街中に慶龍寺があります。泉子育観音として地域や関東一円の人たちに愛されてきたお寺です。寺の由来によれば、創建は元和4年(1618年)、本尊は「子育出世正観世音菩薩」です。諸国布教中の慶龍上人が途中桜川の洪水で行く手を阻まれ、村に流行っていた小児の悪病退治を祈願して堂庵を建て、これがのちに慶龍寺と呼ばれるようになったと伝えられているようです。

 泉地区を抜けて北条に向かう途中に小泉地区があります。ここも更新世の下位段丘の微高地で、古くは小田顕家(北条五郎)の館(小泉邸、鎌倉時代末期・明応年間、1495年ころ)があったといわれる古い集落です。集落のはずれに宝篋塔(顕家供養塔)や八幡社が残っており、折れ曲がった不思議な小道は当時の館をとり囲む壕の跡だそうです(何も看板がありませんが)[2]

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つくばりんりんロードに合流

 最後に国道125号の信号を渡り少し坂道を上ると「つくばりんりんロード」に到着、一路「筑波山口」へ向かって帰ります。国道125号信号の角にはJAつくば市 筑波農産物直売所がありますので地場野菜などショッピングしてお帰りください。

 

お疲れさまでした。

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近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができますので、お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の[ ]内の数字と対応しています。

[1] 池田 宏・小野有五・佐倉保夫・増田富士雄・松本英次 (1977) 筑波台地周辺低地の地形発達―鬼怒川の流路変更と霞ヶ浦の成因―, 筑波の環境研究2, 104-113

[2] 筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻)

[3]  5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図

  https://nlftp.mlit.go.jp/kokjo/tochimizu/F3/data/L/0804L.jpg  (2023.01.25参照)

 

 

【ジオコラム】

自然堤防:洪水時などに川が運んできた土砂が川の周囲にたまり自然にできる堤防です。その外側にできる軟弱な後背湿地より地形的に高く地盤も良いので、洪水にも免れることがあり昔から畑や宅地に利用されてきました。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

上位段丘・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地盤の上昇と地球規模の気候変動による海面の低下により生じた河川の浸食作用できた段丘です。段丘は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい)、中位段丘(同じく20数mくらい) 、下位段丘(同じく10数mくらい)に区分されています [4]。段丘を構成する地層の時代から、その形成の順序は下図のようになっていると考えられます。なお、図は模式的なもので具体的な地名に対応したものではありません。

 

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段採図(地理院地図より作成)

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地形分類図 5万分の1都道府県土地分類基本調査 地形分類図「真壁」・「土浦」[3] より作成

 

 

コース 03 神々の古里 ~ 幻の豊かな海を求めて

                (初回公開:2023.6.10,最終更新日:2024.1.6)


コースあらすじ

 つくば市中央図書館で郷土の書籍を探していたとき、ふとある本の文章に目が留まりました。 本は矢作幸雄著「古代筑波の謎」(2001) [1] 。矢作氏は元筑波山神社宮司の方で、宮司に就任する前から、どこかで読んだ「筑波山の西に大いなる海あり、その名を豊かな海といへり」というメモが気になっていて、就任後もその ”海” を探し求めたという文章でした。

 このコースでは、古代から信仰の対象として崇められてきた筑波山南麓に分布する古墳や神社・寺院を散策し、古来、人々がどのような思いでこの山や自然を崇めてきたのか、その立地の地学的な特徴や幻の海との関係などを探索します。

  <起点>はレンタサイクル拠点がある旧筑波鉄道「筑波駅跡」、現在の筑波山口駅バス停です。TXつくばセンターからはつくバス(北部シャトル)でおよそ1時間の終点です。

 まずつくばりんりんロードを南に向かい「杉ノ木」にある土塔山(どとうやま)古墳をめざします。さらに北条市街へ進み、台地上にある数々の神社・寺院をおとずれ、市街中央から「つくば道」にそって北上、神郡地区へ向かいます。神郡の古い街並みをぬけて蚕影(こかげ)神社、細草川の棚田や六所(ろくしょ)大神宮をおとずれ、眼前に迫る美しい筑波山とその南麓の里山風景を満喫。最後は八幡塚古墳に立ち寄って<起点>の筑波山口駅バス停に戻ります。

 幻の豊かな海はどこだったのかを探しながら、全長16キロメートルほどの散策コースを楽しみましょう。車の往来も少なく走りやすい道ですが、登り坂や一部に神社やお寺の長い階段もありますので、無理をせずに自転車を降りて歩きます。

 

コースデータ

  • 起点:筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)・つくばりんりんロード筑波休憩所    レンタサイクル,トイレ・休憩所、 駐車場(工事中で一部使用不可)があります

  • 終点:起点にもどります

  • 走行距離:約16.2km、高度差:約55m

  • 所要時間:約4.0時間

マップと高低差

 <地理院地図より作成>

 

 <起点からの距離と高低差>

<Google Map>

        <Google Map>を閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。

 

 

<地理院地図>下のリンクから地理院地図を閲覧できます。中央にある十字点の標高が左下の⇒に表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

主な見どころ

1. 起点<筑波山口駅>

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 起点の筑波山口駅は旧筑波鉄道の「筑波駅」跡で、約40キロメートルあった全路線(JR土浦駅ーJR岩瀬駅間、いまは自転車専用のつくばりんりんロード)の中間地点になります。昔のホームや駅舎の一部が残っていて、駐車場やトイレ・休憩所とレンタサイクルの事務所があります。出発前の自転車点検を済ませたらさぁ出発、交通安全に気をつけて走りましょう。

 

<桜並木発祥の地> りんりんロードを南に向かってまっしぐら、この日は穏やかな春の日差しの中、満開の桜並木を気持ちよく走ることができました。

 途中の道路わきに「りんりんロード桜並木発祥の地碑」があります。多くの人にこの路線跡を楽しんでもらいたいとの思いで、地元の有志が集まって平成10年(1998年)から桜の植栽を始めたそうで、それから四半世紀、今では立派な並木になりました。

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2. 杉ノ木稲荷神社と土塔山(どとうやま)古墳

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<杉ノ木から旧街道を行く> およそ2.5キロメートルほど走ると「杉ノ木」のバス停がある交叉点に着きます。ここを左折してりんりんロードを離れ旧道に入ります。「今昔マップ 関東1928-1945」[2] で昔の地図を見ると、当時は県道14号(筑西つくば線)や国道125号はまだ無く、この道が北条と真壁・筑西方面を結ぶ主要な街道だったことが分かります。

 100メートルほど進むと左側の民家と公民館の間に細い上り坂があり、登るとすぐに土塔山(どとうやま)古墳の説明看板が見つかります。その先は急な坂道と階段なので公民館の空き地に自転車を置いて歩くことにします。

 看板の説明によれば、坂の上には古墳時代前期~中期(4世紀後半~5世紀前半頃)に造られた全長約60メートル・高さ4メートル弱の前方後円墳があって、つくば地域でも一番古い時代の古墳だということです[3]

<花こう岩をご神体とする杉ノ木稲荷神社> 石積み階段を登っていくといきなり花こう岩の岩山が現れ、その上に赤い杉ノ木稲荷神社がありました。花こう岩の岩山がご神体になっているのでしょうか。

 どうしてこのような大きな花こう岩体があるのか。この付近の地質図を見ると、筑波山は頂上付近ははんれい岩でできていますが、その周囲は花こう岩や変成岩といった堅い岩石でできた岩山です。その岩山は周辺の平野地下にも埋もれていて、所々で地表に顔を出している部分があります。つまり稲荷神社の花こう岩も筑波山塊の一部だと解釈できます。

<古墳はどこ?> 古墳はこの岩山ではないでしょうから、さらに神社裏の林の中を5ー60メートルほど進んでいくとそれらしき円形の小山がありました。しかし看板などは無く、残念ながら古墳かどうか確認できませんでした。

 稲荷神社から南を眺めると、樹々の間から桜川低地と筑波台地の広い平野が見下ろされ、遠くは日光連山や、もしかして富士山も見渡せそうです。逆に平野から見れば、ひときわ目立つこの小山は、なるほど古墳がつくられるのにふさわしい場所だと思われます。

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3. 小沢の熊野神社

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<台地の先端は神々の指定席> 再び旧街道を北条の市街地にむけて進むと、道はゆるい登り坂になっていきます。道路左手には一段高い台地が現れ、その先端に熊野神社がありました。公民館に自転車を置いて神社に登ってみます。振り返ると、先ほどの稲荷神社の小山が見えますが、どうやら古墳は神社のもっと奥(北側)にあるようです。

<山の下流に広がる台地と「小沢の銘水」> この辺りは小沢という地名で、昔は小沢村と呼ばれた地区です。小沢の地形は標高20数メートルから30メートルくらいの緩やかな起伏をもつ広い台地で、奥の方には大きな工場や倉庫なども建っています。

 地形分類図をみると、台地は中位段丘か、奥の方はもっと古い上位台地に相当するとされています。上位台地は昔の海(「古東京湾」と呼ばれる13~12万年前の海)に堆積した地層を土台とする海成の台地ですから、当時の海岸地形が残っていることになります。熊野神社下の道路わきの小さな崖(標高約23メートル)に径1センチメートルくらいの円磨された小石が並んだ比較的固まった砂礫層がありました。もしかしてこれは海にたまった地層かも知れません。砂礫層からは地下水が湧いていて「小沢の銘水」とよばれ、地元の人や通りがかりのサイクリストが利用していました。(なお地質図ではここの地形は筑波台地と同じで、上部が河川で浸食された中位段丘の面(常総面)と解釈されています)

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4. 北条の台地に並ぶ寺院と神社<無量院・全宗寺>

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<高台に並ぶ寺院・神社> 旧街道をさらに進むと北条の市街地に入ります。市街地は標高がおよそ20~25メートル以下のほぼ平坦な地形(下位段丘群?)上にありますが、道路北側にはそれより数メートル高い狭い高台が見えます。この高台は標高がおよそ30メートルくらいあるので先ほど見た小沢地区の上位台地(または中位段丘)の延長だと思われます。

 高台には寺院や昔の役所跡が並び、さらにその背後にある山(城山)のすそには神社が並んでいます。北条内町のバス停がある十字路を左折して確かめてみましょう。

<無量院・全宗寺> 高台の一番西にあるのが本尊阿弥陀如来像を祀る梅松山無量院(むりょういん)で、多気太郎義幹の菩提寺と言われています。本堂中央にある金箔で覆われた阿弥陀如来像は鎌倉時代中期の建長4年(1252年)の作造といわれ、衣文線をこまやかに刻んだ穏やかなお顔の仏像です(つくば市指定文化財)[4]

 本堂の裏に石造多層塔がありました。石碑によれば、こちらは室町時代(南北朝時代)の延文6年(1361年)造で、昭和になって別のお寺からこの地に移されたものということです。境内には小さな池があり、静かなたたずまいとともに、目の前に広がる桜川の低地を眺める素晴らしい景色が広がります。

 無量院のすぐ東には全宗寺(ぜんそうじ)が並びます。このお寺は北条城主出雲治高が弘法大師自画の不動尊像を家臣の蜷川全宗(のちに熊野修験者になる)に守護させるために建立したもので、名前もそれに由来すると言われています[6]

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5. 北条熊野神社・日向(ひゅうが)廃寺跡

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<花こう岩がご神体の熊野神社> 全宗寺の東にある石段をのぼると北条熊野神社があります。拝殿の奥には巨大な花こう岩がそびえていてその上に社があるので、この神社も花こう岩がご神体なのでしょう。

 鎌倉時代(至徳元年、1384年)に創建ということで、当時、筑波山麓の地域は紀州熊野とのつながりが強く、熊野山信仰が広く伝えられたといいます。

<市内最古の鳥居> 神社の南には参道があり花こう岩でできた鳥居が立っていました。これは江戸時代(寛永年間)に造られたもので、市内では最も古い鳥居だそうです[2]。町屋から見上げる参道の風情は今でもかわらない地域の人々の想いを偲ばせるものがあります。

 熊野神社の東には日向(ひゅうが)廃寺跡があり、平安時代から鎌倉時代にかけてこの地にあったらしいお寺の礎石が復元されています。京都の宇治平等院鳳凰堂に似た東西に回廊を持つ珍しい寺院の跡だという詳しい説明看板があります。

 現在、遺跡の周囲には市営住宅が並んでいますが(というか、昔、町営住宅を造ろうと土地造成をしたときに偶然多数の礎石が発見されたとのこと)、このあたりは江戸時代の役所の跡地だということです。町屋より一段高い高台は当時の官庁街だったのでしょう。北側の山(城山)は花こう岩でできていて(地質図参照)かつて石材を切り出したらしい跡がありました。

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6. 毘沙門天種子板碑(びしゃもんてんしゅしいたび)

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 さらに東に進むと高台はすこし広くなり、これも鎌倉時代に制作されたと伝えられる毘沙門天種子板碑(びしゃもんてんしゅしいたび)(つくば市指定工芸品 [4])が曲がり角に立っています。高さ180センチメートル、幅82センチメートルの雲母片岩に刻まれた微細な彫刻は素人目にも実に見事なもので工芸的にも一見の価値があります。

 となりに宝安寺がありますが、今回はパスして先に進みます。

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7. 北条の市街地から旧北条小学校跡へ

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<つくば道の入り口> 寺院が並ぶ高台からいったん坂を下りて市街地にもどり、古い民家や商店が並ぶ北条の中心市街を走ります。北条は鎌倉時代には城下町として、江戸時代ころからは東西を結ぶ街道の宿場町、筑波山への門前町として栄えました。中心の仲町交差点の角には当時の豪商たちが建てたと刻印のある「ここよりつくば入口」の道標があります。ここを左折し「つくば道」を進みます。

 <近代の高台指定席は?> 坂道を上がると「旧つくば市立北条小学校」の道標があるので右折、100メートルほど進むといまは廃校になった小学校の立派な門があります。開いていれば構内に入ることもできそうですが、門からでも3階建ての校舎と桜が満開の広い校庭が見えました。門の正面には二宮金次郎の像だけが寂しそうに残っていました。

 北条小学校は明治8年(1874年)に創立され、廃校(2018年3月)になるまで実に144年にわたり北条の子供たちを育んできたわけです。「創立当初は校舎がなく私のお寺で寺子屋としてはじまりました」と、門で出会った無量院の奥さんが説明してくれました。

   この高台は鎌倉時代に北条氏が築城した北条城があった跡と言われています。古代・中世の高台は古墳や神社・寺院、城の指定席でしたが、近現代は役所や学校の指定席です。いずれの時代でも地域にとっては最も重要な場所だったわけです。

<山の下流側に残されたふるい段丘> 小学校の校庭は標高30メートル以上あり、地形分類図では海成の上位台地にしています。以前に校庭のすぐ東側の崖で、海浜に棲む生物の痕跡の化石(白斑状生痕化石)を含む砂層を観察したことがありました。すぐ上はローム に覆われていて、河川の浸食は見当たらなかったので、これは海成の段丘だと判断してよいと思われます。

 ここより東方の中台や平沢地区には桜川沿岸でも最も広く上位台地が広がります。小沢の台地と同じように、ここも城山の下流側にあって海成の段丘面がその後の河川の浸食から免れてとり残されたのだと考えられます。

<高位段丘はある?> つくば道をさらに進むと標高40メートルを超す峠あたりにわずかに平坦な地形(あるいは緩やかな斜面)があります。地形分類図では山麓緩斜面としていますが、これは古い時代にできた高位段丘の浸食された地形ではないかと気になります。以前、城山の北西にある漆所(うるしじょ)という地区で、同じく山麓緩斜面とされているほぼ同じ高さの露頭で赤色に風化した海成の砂層を、高位段丘の堆積物と解釈したことがありました。古東京湾よりさらに古い、数十万年前の時代の海成の地層です。

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8. 普門寺

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<時代の変遷を伝える静かな山寺> 神郡の集落の手前、つくば道の右手に普門寺があります。入口に自転車を置いて参道を登ってみましょう。

 普門寺は鎌倉時代末の元享年間(1321~1324年)に、当時この地域で隆盛を誇った小田家の祈願寺として創建されたといわれる寺で、御本尊は平安時代末の作とされる阿弥陀如来だそうです。本堂の奥には16世紀末ころ造られたといわれる見事な石造九重層塔がありました(県指定文化財・工芸品)[4]

 歴史の流れの中で浮沈を繰り返し、江戸時代末頃には田舎寺だったと言われます。明治になると廃仏毀釈の影響で荒廃した時期もあり、さらに平成21年に本堂が全焼、本尊の阿弥陀如来も含めすべてが焼失してしまいました。平成26年に新本堂が再建され、庭園の整備や新墓地の造成、山門・鐘楼堂などの改修が行われました。

 鳥の鳴き声、流れ落ちる滝の音、春の桜や新緑、参道の紫陽花、秋の紅葉と四季折々の風情を感じることができる静寂な山のお寺です。「つくば市観光協力の家」として地域の活性化にも力を注いでいただいており、池のほとりには休憩のベンチも用意されて自由にお茶を飲むことができ、墓地のトイレも利用可能でした。

 <ちょっと気になる赤色砂層> 普門寺入口あたりのつくば道沿いには古い住宅や畑が並んでいます。とある住宅の入り口に小さな露頭があってかなり風化の進んだ赤色砂層がありました。地形的には標高30-40メートルほどの緩やかな台地で山麓緩斜面に区分されています。つまり漆所と同じで、もしかして高位段丘の証拠ではないかと気になります。このあたりの地名は赤町となっていますが、大地の性質と関係があるのかもしれないと想像してしまいます。
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9. 神郡(かんごおり)の街並み

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 <タイムスリップに入ったような歴史の街> つくば道をさらにすすみ坂道を一段下ると神郡(かんごおり)地区上町の集落に入ります。ここから見るとつくば道の真正面に筑波山がそびえます。道の両側には立派な門構えや白壁・石倉がある古い家が並び、まるでタイムスリップに入ったような古道の面影が味わえます。

 ここはかつての田井村の中心で、最近まで商店街もあったのでしょうが、今ではほとんど閉店し和菓子屋さんだけが残っていました。私はここに来るたびにお店の名物「揚げまんじゅう」を買うことにしていますが、このような街並みが保存されていくことを願いたいです。

 

 神郡という地名も独特ですが、姓の同じ家が多く並ぶのも気になります。和菓子屋さんと同じ櫻井姓が特に目立ちますが、この姓は全国的に見ても茨城県や千葉県などで多く、県内ではつくば市が一番多いそうです。地名や名字の歴史も調べると面白いのかもしれません。

<筑波山イチオシの絶景ポイント> 以前は一つ目の点滅信号があった、角に石倉のある十字路を右折し東に進みます。このあたりから見える、逆川(さかさがわ)を挟んで眼前に広がる筑波山南麓のパノラマはまるで絵にかいたような絶景です。いつだったか道路わきで三脚を構えて写真を撮っている人に出会いましたが、聞くと毎週のように栃木県からきて筑波山の四季の姿を何年も定点撮影していると言っていました。

<美しい筑波山のひみつ> 筑波山がなぜこれほど美しいのでしょうか。海抜20-30mの水田から、何もさえぎる山もなく直接877メートルの尖った山頂と広々とした緩やかな山すそが一望できるからでしょうか。つまり13-12万年前に古東京湾が筑波山のすぐ近くまで広がっていたという、関東平野の中でもここにしかない特徴によるものであることは間違いないでしょう。

<山麓斜面の地形を見分けよう> あらためて筑波山の山麓斜面をよく見ると、ホテルがある標高500メートルあたりを境に、その上と下で山の地形が明瞭に違うことが分かります。上側には谷の切れ込みがある急な斜面が見えますが、下側はのっぺりとした傾斜の緩やかな斜面が広がります。段採図ではその違いがさらにはっきり分かります。

 下半部の斜面は上半部より浸食の程度が少ないことから、より新しい時代にできた地形だと思われます。地質時代のある時代に、筑波山上部の岩山が崩壊し土石流となって崩れ落ち、それらが下流に堆積したのでしょう。この部分を地質図では「山麓斜面堆積物」とし、文献によればその堆積時期は古東京湾が広がった時期よりもあとと解釈されています[8]

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10.  蚕影(こかげ)神社と金色姫伝説

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<蚕影神社> さらに東へ進み蚕影神社(通称「蚕影山神社」)へ向かいます。車も少なく水田や畑の中の自転車走行は実に気持ちが良いです。

 館(たて)の集落を過ぎ道路の行き止まりまで進むと石灯篭が二つ並ぶ石段の参道があります。入口にあるかつての旅篭「春喜屋」に自転車を置かせてもらい石段を登ります。石段の石材は下半部が変成岩で、上半部が花こう岩でできていました。どちらも近くで産出する石材を使っているのでしょう。境内は周辺の露頭を見る限り風化した(マサ化した)花こう岩でできていました。

 神社の林はよく手入れされているように見えますが、いつだったか、鹿島から来たという女性が、一人で黙々と境内を清掃をされていたのには頭が下がりました。

 およそ200段ほどある階段を登り二つの鳥居をくぐるとようやく拝殿が見え、その奥に本殿がありました。本殿は江戸時代初期、拝殿は大正時代の建築だそうです。いまでも年3回例大祭が開かれているそうで、そのうち3月には養蚕祭り、10月の秋の大祭では巫女の舞なども復活していると聞きました。

<養蚕発祥の地> 神郡周辺の館地区や向かいの立野地区は養蚕発祥の地と言い伝えられ、明治から昭和初期には全国各地からこの神社に参詣者が訪れてにぎわったそうでっす。奉納された古い絵馬や繭玉が本殿や右隣の絵馬堂に飾られていました。

<金色姫伝説> その絵馬の中に「金色姫(こんじきひめ)伝説」の絵馬がありました。「天竺から桑の函舟で流されてきた金色姫がこの地の海岸にたどり着き、親切な権太夫(ごんだゆう)夫妻に助けられたが、すっかりやつれた姫はまもなく病で亡くなった。死後、姫は棺の中で蚕となり養蚕を伝え恩返しをした」という伝説です。実は同じような伝説が北茨城や鹿島の神社にもあり、いずれも近くに海岸がありそこが養蚕発祥の地と言い伝えられているそうで、宮本宣一著「筑波歴史散歩」[6]に詳しくいきさつが紹介されています。本当に伝説のように、その昔ここは海岸の近くにあったのでしょうか。

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11. ”豊かな海”と美しい棚田

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<”豊かな海”はどこ?> このあたりの地名は館(たて)といいますが昔は豊浦と言われた記録もあります[6]。いまは近くに介護老人保健施設「豊浦」があります。「豊浦」?? もしかしてここが”豊かな海”だったのでしょうか。

 蚕影山神社をあとにもと来た道を少し戻ると、来るときは通り過ぎた館児童館があります。よく見ると児童館前の桜の木の下に石灯篭(石碑?)が一つぽつんと立っていました。地元の人に聞くと、これが「権太夫の碑」だということです(看板などはありません)。ここが伝説の海岸だったということでしょうか??

 館の集落は周りの田んぼより一段高いこじんまりとまとまった台地の上にあり、むかし陣屋があった場所らしいです。地形分類図を見ると、神郡地区から館にかけて標高35メートルほどの台地が広がり、それは上位段丘面に相当するとされています。すなわちおよそ13~12万年前の海の地層がこの台地面をつくったと解釈されているわけです。地質図では少し解釈が異なり、この場所の地形面は河川成の中位段丘面(常総面)とされていますが、近くに海の地層(木下層)の分布も示されています。

 いずれの解釈でも、13~12万年前にこのあたりに海(古東京湾)があったことが示されています。ただしそれは、伝説の海よりはるか太古の海になります。昔の人たちが近くの地層から貝やカキの化石などを見つけて、それがいつしかこの地の伝説の土台になったのかもしれません。

<美しい桃源郷> 館児童館の裏の坂道を斜めに降り途中から東に進むと逆川(さかさがわ)の支流「細草川」に差し掛かります。春は梅、桃、桜、そして菜の花が美しく咲き、夏になるとホタルが舞う自然豊かな里山が続きます。地元NPO法人のグループなどが「すそみの田んぼ」と周辺谷津田を保護する活動をしているようですが、緩やかな棚田の並ぶ美しい山里は大切に保存したいものです。

<「古東京湾」の入り江> 細草川の奥の棚田から西の桜川低地を見ると、ここが「古東京湾」の時代には入り江であったイメージがつかめます。人々がまだ日本列島に住みつくよりはるか昔の時代の、つくばの景色を想像してみましょう。

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12. 六所皇大神宮霊跡(ろくしょこうたいじんぐうれいあと)・六所の滝

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 逆川を横断し、新しくできた六所大仏のある十字路を北に曲って坂道を登っていくと六所皇大神宮第一駐車場があります。このあたりから坂が急になるので自転車を押して坂を上ると六所大皇宮の石段があります。石段の上に厳かな雰囲気の六所皇大神宮霊跡が現れました。杉の大木の中に幽玄な静寂が漂っている気がします。

 六所にあった神社は明治43年に廃社され蚕影山神社に合祀されましたが、それまでは筑波山神社がおこなう春と秋の御座所替祭(ござしょかえさい)の里宮の役割を果たしたそうです。かつては本殿が2棟あったそうですが[2]、今は石垣だけが面影を残しています。

<六所の滝> 境内の右手に「六所の滝」へ至る案内看板があります。林の中の小道を「しらたきみち」と間違えないように300メートルほど進むと、花こう岩やはんれい岩の巨礫がごろごろ転がる谷川に近づきます。巨礫の隙間に堆積する砂は花こう岩が風化するとできる細かな雲母の破片がたくさん含まれ、きらきら光っています。さらに進むと高さ数メートルある「六所の滝」がありました。この滝は花こう岩の露頭と思われます。

 最近、この沢の上流で採取された花こう岩から新しい方法で年代を測定した研究成果がでました[9]。それによると花こう岩が地下深くでマグマから固結した年代は今からおよそ8千万年前ということで従来考えられていた年代より大分古く、山頂のはんれい岩と同じくらいの時代になるということで注目されています。

<山麓斜面の土地利用> 六所皇大神宮霊所跡をあとに緩やかな下り斜面を下ると、このあたりが対岸から見た「山麓斜面堆積物」の分布する場所だとわかります。周囲には大きな岩石が散乱し、畑や住宅の塀に石積みされていることに気が付きます。これらの石はほとんどが黒っぽいので、筑波山上部から転がってきたはんれい岩だとわかります。斜面には石垣でつくった棚田もありますが、花こう岩の風化でできた砂層でおおわれた畑もあり、水はけの良い畑ではブドウなどが栽培されています。

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13. 金堀塚古墳・十三塚土塁

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  逆川に並行する東西の直線道路を西へ進むと、田んぼの中に金堀塚古墳がありました。この古墳は6世紀後半に造られた、もともとは径12メートルほどの円墳だったようですが、現在は大分変形しています。南側に小さな横穴式石室の開口部があり、直刀や勾玉、金環が発掘されたと言われています[3]

<ナゾに満ちた十三塚の土塁> 古墳の上に登って南を見ると道路を挟んで土塁のような高まりがまっすぐ南北に伸びているのが見えます。十三塚の土塁です。十三塚と呼ばれるのは、土塁の上に江戸時代にできた十三塚があるためだそうです[3]

 土塁は長さ約200メートル、幅が16メートル、高さ4-5メートルほどある大規模なものですが、何のために造られたのか謎でいろいろな説があります。上流に溜池をつくるための堰、筑波山への参道、牧原の囲い、防衛のためなど。このうち溜池説が最も有力のようですがどうでしょうか[3]

<もともとあった自然の高まりを利用した?> 地形分類図ではこの高まりは上位台地とされています。もちろん土塁そのものは人工物ですが、南側の館の台地(上位台地)からのびる高まりの延長部にあることから、もとからあった自然の高まりが土台になっているのかもしれません。そのような目で見ると上町から延びるつくば道や金堀塚古墳、次に訪れる諏訪山古墳も、もともとあった自然の高まりの上に築かれたと考えるのが妥当のように思えます。


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14. 諏訪山古墳

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 さらに一本道を西に向かって進み、再びつくば道に出会ったら右折してやや高くなった畑を進むと、左手に諏訪山古墳があります。途中案内看板や古墳の説明看板なども全くなく、ごく普通に畑の中にあるので見逃してしまうかもしれません。 

           

 臼井地区赤塚のあたりには前方後円墳や円墳などの古墳群がいくつかあるようで、この古墳はそのうちの一つだと思われますす。径8メートル、高さ2メートルほどの円墳で、6世紀後半頃の築造だと考えられているようです[3]

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15. 燧ヶ池(ひうちがいけ)

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 諏訪山古墳の北西に燧ヶ池(ひうちがいけ)がありますので寄ってみましょう。観光の名所と言われるわりに、ここも例によって案内看板がなく、車では近づきにくいですが自転車なら簡単に立ち寄れます。

 四季を通じて、秀峰筑波山を背景にした里山の景色を楽しめるところで、土手に咲く春の桜や彼岸花の群生はとくに人気の写真スポットだそうです。土手の端にエノキの古木がありました。かつては大木で地域のシンボルだったそうですが、十年ほど前に幹から折れてしまったらしく、いまでは幹の一部だけが残っています。

 燧ヶ池は山麓を流れ下る男女川の水を利用した農業用ため池ですが、いつの時代に造られたものかよく分かりません。地形分類図を見ると中位段丘に挟まれた低地に男女川の水を堰き止めたため池で、下流に広がる神郡の水田にとっては重要な水利施設であることが分かります。

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16. 飯名神社

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 <筑波山神社の里宮> 次に筑波山神社の里宮である山麓の飯名(いいな)神社に登ってみます。もし体力と時間が心配なときはパスして、燧ヶ池からつくばりんりんロードに直行するのも良いでしょう。

 燧ヶ池から畑の中の道を北上すると沼田へ抜ける旧街道にでます。街道に出たら右折、東へ100メートルほど進むと「飯名神社入口」の案内看板があります。

 飯名神社はここから40メートルほど上にありますがかなりの登り坂なので、ここは自転車を降りて歩いて進みます。古い住宅の間を登っていくと林の中に飯名神社の鳥居が見えてきました。

<巨大な岩がご神体でしょうか> 飯名神社は大変歴史のある神社です。拝殿に掲げられている「飯名神社由来記」によれば、直接の創建記録ではないけれど常陸国風土記の「信田(しだ)郡の記」のなかで、里に飯名の社があること、筑波の岳(やま)にある飯名の神の別属(わかれ)であるという記録があるとのことです。

 近所の方に伺うと、地元では「稲野の弁天さま」とよばれ旧正月の例大祭には縁日が立つほど地域の人々に崇められているそうです。

 本殿の後ろには巨大な岩があり、上に祠がおかれています。この岩がご神体でしょうか。また、鳥居の左手にも4ー5メートルの巨石に生えた大木があります。どれも岩ははんれい岩ですが地質図によれば、この場所は「山麓斜面堆積物」の上になるので、巨岩は露頭ではないと思われます。いわば筑波山頂の岩が移動してきたといえます。

 坂道の帰りは楽ですが、スピードが出ないよう十分に気をつけて戻ります。街道にでたら沼田の方へ進みます。

 

 ( 寄り道:飯名神社よりさらに50メートル上った山麓斜面に月水石(がっすいせき)神社があります。同じくはんれい岩の巨岩の上に社があり、謂れでは日本書紀でも語られたイワナガヒメを祭神とする神社だということです。男女川沿いで岩がゴロゴロ並ぶ山の斜面にあり、岩や大地に対する信仰や畏敬の気持ちが独特な雰囲気を醸し出しているのかもしれません。)

    

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17.  沼田八幡塚古墳

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<市内最大規模の前方後円墳> 本コース最後の見どころです。沼田の集落を抜け、りんりんロードも横切って馬場地区に進みます。250メートルほど走ると右手の住宅の陰に大きな古墳が現れます。これが桜川流域では最大規模の前方後円墳で、昭和12年に茨城県指定史跡に指定された沼田八幡塚古墳です。

 前方部は長さ32メートル、幅35メートル、後円部は径58メートルで3段になっているらしく、頂部に八幡神社が祀られています。東側にある八幡池はいまは防火用水に間違われそうな感じですが、元は古墳周溝の一部と考えられているものらしく、実はここから見事な人物埴輪頭部が発掘されました(県指定文化財)[4]。実物は小田の歴史ひろば案内所に陳列されていました。子供の頭くらいの大きさで少女像だということです。埴輪の様式から古墳が築造されたのは古墳時代後期(6世紀前葉頃)と考えられているそうです[3,4]

 古墳が造られたのは筑波山の南山麓に堆積した「山麓斜面堆積物」の緩やかな斜面上で、桜川沿岸の下位台地よりは少し高い標高25メートルくらいの高台です(地質図地形分類図参照)。古くから人々が住んだ里山で、眼前の筑波山を背景にした絶好の立地だったのだと思われます。

18. <終点>筑波山口駅

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 終着の筑波山口駅は住宅を抜けるとすぐでした。お疲れさまでした。

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あとがき

 「幻の豊かな海」を探し求めた矢作幸雄氏は、はじめ桜川や小貝川周辺に「島」とか「沖」とつく地名がたくさんあることに注目しその分布を調べたようです。そのうちに「豊浦」の地名が金色姫伝説の海岸につながっていること、鹿島の神栖にある蚕霊神社にも同じ豊浦浜と金色姫伝説があることに気が付き、きっと縄文海進ころには神郡のあたりが「豊かな海」だったのだろうと想像していました。

 たしかに、今から7000年ほど前の縄文時代に、海が現在の標高4メートルほどの内陸にまで侵入したのですが、標高40メートルある豊浦までは到達していません。一方、13~12万年前なら、このあたりは「古東京湾」でしたし、実際に近くから貝やカキの化石が産出する場所があることから、太古の時代には近くまで海があったと信じたのだと思われます。そして人々は幻の海の物語を創作したのかもしれません。

 このコースでは自転車で大地の起伏を体感しながら、古墳や寺院・神社の立地をとおして地形と人々の暮らしの係わりを探索しました。自然のなりたちとひとびとの文化創造の歴史を楽しんでいただけたでしょうか。

 

近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 帰路、国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができる。お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 矢作幸雄 (2001) 「古代筑波の謎」, 学生社

[2] 谷 賢二「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.01.25参照)

[3] 筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻)

[4] つくば市教育委員会(2009) つくば市の文化財(2009年版)、つくば市

[5] 筑波山麓フットパス ~神郡~六所~筑波

 https://www.city.tsukuba.lg.jp/material/files/group/110/kangori_202208.pdf

 (2023.01.25参照)

[6]  宮本亘一 (2014) 筑波歴史散歩, 日経事業出版センター

[7]  NPO法人つくば環境フォーラム

[8] 磯部一洋 (1990) 茨城県筑波山・加波山周辺の緩斜面堆積物の形成について,地質調 

      査所月報,第49巻,p.357-371

[9] Koike, W and Y. Tsutsumi (2018)  Zircon U-Pb dating of plutonic rocks at the Tsukuba area, central Japan. Bull.  Natl. Mus. Nat. Sci. Ser. C, 44, 1-11

 

 

 

【ジオコラム】

地質図

 出典:宮崎一博・笹田政克・吉岡敏和(1996)真壁地域の地質.地域地質研究報告

     ( 5 万分の1 地質図幅),地質調査所,103p.

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441  (2023.04.05参照)

        下図は本コース周辺の部分図で、上にコース・ルートを加筆して作成

【地質図の記号説明】

 Gb:はんれい岩、Ts2・Ts3・Ts5:筑波花こう岩、mm:筑波変成岩、Ki:木下層(古東京湾の堆積物)、 Jo・tm:常総層(中位段丘堆積物)、tl:低位段丘堆積物、

sh・sl:山麓斜面堆積物

花こう岩・はんれい岩:地下深い場所(地下数キロから10キロメートル)で高温のマグマがゆっくり冷えて固まった火成岩の一種。含まれる鉱物の違いで石英などケイ酸塩鉱物の多い白っぽい花こう岩とケイ酸塩鉱物の少ない黒っぽいはんれい岩とに分類されます。

変成岩:地下深くで堆積岩(砂岩・泥岩・石灰岩)などがマグマの熱(数百°C)で新しい鉱物ができるなど変質した岩石。雲母片岩などがある。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

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段採図:標高10m-50mの間を2.5mごとに色分け。(地理院地図より作成)

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上位台地・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地球規模の気候変動による氷河性海面変動と地域固有な地殻変動との相対的な組み合わせで生じるによる海面の低下によって、海や河川の浸食・堆積作用でできた平坦な地形です。段丘面は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい、地形分類図ではUt)、中位段丘(同じく20数mくらい、地形分類図ではMt)、下位段丘(同じく20数m以下、地形分類図ではLt)に区分されています [4]

 上位段丘面は今から13-12万年前の「古東京湾」と呼ばれる海の底に堆積した海成の地層を土台とする段丘による地形面で、中位段丘面は約10万年前に関東平野を流れる河川の底に堆積した河川成の地層を土台とする段丘による地形面です。

高位段丘: 段丘の区分は高さの順に、高位段丘(丘陵・山麓緩斜面)・上位段丘・中位段丘・下位段丘・低位段丘に区分されます。

丘陵:山地に対する平野の地形は高さの違いで丘陵・台地・低地に区分され、山地より低く台地より高いおよそ100mより低い起伏を丘陵とよびます。比較的なだらかな台地状の丘陵は山麓緩斜面とよばれることがあります。(浸食の進んだ高位段丘であることもあります。)

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地形分類図:5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図 「真壁」及び「土浦」より作成

【地形分類図の記号説明】

 M:山地、Hp:丘陵地、Ut:上位台地、M1・Mt2・:中位段丘、Lt:下位段丘、

 Ps1・Ps2・Ps3・Ps4:山麓緩斜面、S:崖および斜面

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【メイン】 つくば・りんりんジオ散策の楽しみ

はじめに

 皆さんこんにちは! 私は<りんりんジオ翁(じい)>といいます。里山を自転車で走るのが大好きな、シニアの地学愛好家です。

 さて、つくば周辺の里山や古い集落の道を自転車でゆっくり走ると、車で通ったときには全く気がつかなかったような、わずかな坂道や不思議な曲がりくねった道などに出会うことがありませんか。

 実は、このような身近な景色のなかに、太古の昔の海や川、段丘などの特徴的な記録があって、人々がその地形をたくみに利用してきたことに気がつきます。

 こんなことを見つけながら走る旅を、ここでは<りんりんジオ散策>と呼ぶことにします。これからおすすめの散策コースをいくつか紹介しますので、一人でも、あるいはご家族やお仲間といっしょに、スマホを片手に大地と歴史を発見する旅に出かけてみませんか。この記事が少しでもお役にたてば幸いです。

【交通安全と走行のマナー】

 自転車走行に際しては、交通安全と通行人や地域の皆さんにご迷惑をかけないよう、基本的なルールやマナーに気を付けましょう。

 乗る前に行う「車体点検のA・B・C・D」を教えてもらったことがあります。AはAir(タイヤの空気圧)、BはBrake(ブレーキの効き方),CはChain(チェーンのサビやゆるみなど)、DはDrop(車体を10cmほど持ち上げて落とした時、ねじのゆるみなどの異音がしないかなど)の点検をするということです。サドルの高さも自分の体に合わせて調整します。準備ができたらさぁ出発!

 

 「旧筑波鉄道」沿線のおすすめコース

  まずおすすめするのは旧筑波鉄道沿線のコースです。

 かつて、JR常磐線の土浦駅からJR水戸線の岩瀬駅までの約40kmを筑波鉄道が走っていました。1987年に約70年の歴史を閉じて廃線になりましたが、その後路線跡はりっぱな自転車専用道路「つくばりんりんロード」として整備されています。駅跡も休憩所や駐車場として活用されており、沿線の3ヶ所にレンタサイクルの拠点があります。以下のおすすめコースはこの拠点を起点・終点としてつくられています。


おすすめコース

【コース01】里山の原風景~桜川の源流をたずねる <準備中>

【コース02】段丘上に発展した北条の街並み ~ 北条用水をたどる

   【コース02-1】(追加コース)広大な桜川低地を横断 ~  低地の中の小集落と

                  化石カキ礁を訪ねる

【コース03】神々の古里~幻の豊かな海を求めて

 


 

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