コース 03 神々の古里 ~ 幻の豊かな海を求めて

                (初回公開:2023.6.10,最終更新日:2024.1.6)


コースあらすじ

 つくば市中央図書館で郷土の書籍を探していたとき、ふとある本の文章に目が留まりました。 本は矢作幸雄著「古代筑波の謎」(2001) [1] 。矢作氏は元筑波山神社宮司の方で、宮司に就任する前から、どこかで読んだ「筑波山の西に大いなる海あり、その名を豊かな海といへり」というメモが気になっていて、就任後もその ”海” を探し求めたという文章でした。

 このコースでは、古代から信仰の対象として崇められてきた筑波山南麓に分布する古墳や神社・寺院を散策し、古来、人々がどのような思いでこの山や自然を崇めてきたのか、その立地の地学的な特徴や幻の海との関係などを探索します。

  <起点>はレンタサイクル拠点がある旧筑波鉄道「筑波駅跡」、現在の筑波山口駅バス停です。TXつくばセンターからはつくバス(北部シャトル)でおよそ1時間の終点です。

 まずつくばりんりんロードを南に向かい「杉ノ木」にある土塔山(どとうやま)古墳をめざします。さらに北条市街へ進み、台地上にある数々の神社・寺院をおとずれ、市街中央から「つくば道」にそって北上、神郡地区へ向かいます。神郡の古い街並みをぬけて蚕影(こかげ)神社、細草川の棚田や六所(ろくしょ)大神宮をおとずれ、眼前に迫る美しい筑波山とその南麓の里山風景を満喫。最後は八幡塚古墳に立ち寄って<起点>の筑波山口駅バス停に戻ります。

 幻の豊かな海はどこだったのかを探しながら、全長16キロメートルほどの散策コースを楽しみましょう。車の往来も少なく走りやすい道ですが、登り坂や一部に神社やお寺の長い階段もありますので、無理をせずに自転車を降りて歩きます。

 

コースデータ

  • 起点:筑波山口駅(旧筑波鉄道「筑波駅」)・つくばりんりんロード筑波休憩所    レンタサイクル,トイレ・休憩所、 駐車場(工事中で一部使用不可)があります

  • 終点:起点にもどります

  • 走行距離:約16.2km、高度差:約55m

  • 所要時間:約4.0時間

マップと高低差

 <地理院地図より作成>

 

 <起点からの距離と高低差>

<Google Map>

        <Google Map>を閲覧できます。近隣情報や現在地がわかります。

 

 

<地理院地図>下のリンクから地理院地図を閲覧できます。中央にある十字点の標高が左下の⇒に表示されます。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

 

主な見どころ

1. 起点<筑波山口駅>

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 起点の筑波山口駅は旧筑波鉄道の「筑波駅」跡で、約40キロメートルあった全路線(JR土浦駅ーJR岩瀬駅間、いまは自転車専用のつくばりんりんロード)の中間地点になります。昔のホームや駅舎の一部が残っていて、駐車場やトイレ・休憩所とレンタサイクルの事務所があります。出発前の自転車点検を済ませたらさぁ出発、交通安全に気をつけて走りましょう。

 

<桜並木発祥の地> りんりんロードを南に向かってまっしぐら、この日は穏やかな春の日差しの中、満開の桜並木を気持ちよく走ることができました。

 途中の道路わきに「りんりんロード桜並木発祥の地碑」があります。多くの人にこの路線跡を楽しんでもらいたいとの思いで、地元の有志が集まって平成10年(1998年)から桜の植栽を始めたそうで、それから四半世紀、今では立派な並木になりました。

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2. 杉ノ木稲荷神社と土塔山(どとうやま)古墳

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<杉ノ木から旧街道を行く> およそ2.5キロメートルほど走ると「杉ノ木」のバス停がある交叉点に着きます。ここを左折してりんりんロードを離れ旧道に入ります。「今昔マップ 関東1928-1945」[2] で昔の地図を見ると、当時は県道14号(筑西つくば線)や国道125号はまだ無く、この道が北条と真壁・筑西方面を結ぶ主要な街道だったことが分かります。

 100メートルほど進むと左側の民家と公民館の間に細い上り坂があり、登るとすぐに土塔山(どとうやま)古墳の説明看板が見つかります。その先は急な坂道と階段なので公民館の空き地に自転車を置いて歩くことにします。

 看板の説明によれば、坂の上には古墳時代前期~中期(4世紀後半~5世紀前半頃)に造られた全長約60メートル・高さ4メートル弱の前方後円墳があって、つくば地域でも一番古い時代の古墳だということです[3]

<花こう岩をご神体とする杉ノ木稲荷神社> 石積み階段を登っていくといきなり花こう岩の岩山が現れ、その上に赤い杉ノ木稲荷神社がありました。花こう岩の岩山がご神体になっているのでしょうか。

 どうしてこのような大きな花こう岩体があるのか。この付近の地質図を見ると、筑波山は頂上付近ははんれい岩でできていますが、その周囲は花こう岩や変成岩といった堅い岩石でできた岩山です。その岩山は周辺の平野地下にも埋もれていて、所々で地表に顔を出している部分があります。つまり稲荷神社の花こう岩も筑波山塊の一部だと解釈できます。

<古墳はどこ?> 古墳はこの岩山ではないでしょうから、さらに神社裏の林の中を5ー60メートルほど進んでいくとそれらしき円形の小山がありました。しかし看板などは無く、残念ながら古墳かどうか確認できませんでした。

 稲荷神社から南を眺めると、樹々の間から桜川低地と筑波台地の広い平野が見下ろされ、遠くは日光連山や、もしかして富士山も見渡せそうです。逆に平野から見れば、ひときわ目立つこの小山は、なるほど古墳がつくられるのにふさわしい場所だと思われます。

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3. 小沢の熊野神社

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<台地の先端は神々の指定席> 再び旧街道を北条の市街地にむけて進むと、道はゆるい登り坂になっていきます。道路左手には一段高い台地が現れ、その先端に熊野神社がありました。公民館に自転車を置いて神社に登ってみます。振り返ると、先ほどの稲荷神社の小山が見えますが、どうやら古墳は神社のもっと奥(北側)にあるようです。

<山の下流に広がる台地と「小沢の銘水」> この辺りは小沢という地名で、昔は小沢村と呼ばれた地区です。小沢の地形は標高20数メートルから30メートルくらいの緩やかな起伏をもつ広い台地で、奥の方には大きな工場や倉庫なども建っています。

 地形分類図をみると、台地は中位段丘か、奥の方はもっと古い上位台地に相当するとされています。上位台地は昔の海(「古東京湾」と呼ばれる13~12万年前の海)に堆積した地層を土台とする海成の台地ですから、当時の海岸地形が残っていることになります。熊野神社下の道路わきの小さな崖(標高約23メートル)に径1センチメートルくらいの円磨された小石が並んだ比較的固まった砂礫層がありました。もしかしてこれは海にたまった地層かも知れません。砂礫層からは地下水が湧いていて「小沢の銘水」とよばれ、地元の人や通りがかりのサイクリストが利用していました。(なお地質図ではここの地形は筑波台地と同じで、上部が河川で浸食された中位段丘の面(常総面)と解釈されています)

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4. 北条の台地に並ぶ寺院と神社<無量院・全宗寺>

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<高台に並ぶ寺院・神社> 旧街道をさらに進むと北条の市街地に入ります。市街地は標高がおよそ20~25メートル以下のほぼ平坦な地形(下位段丘群?)上にありますが、道路北側にはそれより数メートル高い狭い高台が見えます。この高台は標高がおよそ30メートルくらいあるので先ほど見た小沢地区の上位台地(または中位段丘)の延長だと思われます。

 高台には寺院や昔の役所跡が並び、さらにその背後にある山(城山)のすそには神社が並んでいます。北条内町のバス停がある十字路を左折して確かめてみましょう。

<無量院・全宗寺> 高台の一番西にあるのが本尊阿弥陀如来像を祀る梅松山無量院(むりょういん)で、多気太郎義幹の菩提寺と言われています。本堂中央にある金箔で覆われた阿弥陀如来像は鎌倉時代中期の建長4年(1252年)の作造といわれ、衣文線をこまやかに刻んだ穏やかなお顔の仏像です(つくば市指定文化財)[4]

 本堂の裏に石造多層塔がありました。石碑によれば、こちらは室町時代(南北朝時代)の延文6年(1361年)造で、昭和になって別のお寺からこの地に移されたものということです。境内には小さな池があり、静かなたたずまいとともに、目の前に広がる桜川の低地を眺める素晴らしい景色が広がります。

 無量院のすぐ東には全宗寺(ぜんそうじ)が並びます。このお寺は北条城主出雲治高が弘法大師自画の不動尊像を家臣の蜷川全宗(のちに熊野修験者になる)に守護させるために建立したもので、名前もそれに由来すると言われています[6]

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5. 北条熊野神社・日向(ひゅうが)廃寺跡

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<花こう岩がご神体の熊野神社> 全宗寺の東にある石段をのぼると北条熊野神社があります。拝殿の奥には巨大な花こう岩がそびえていてその上に社があるので、この神社も花こう岩がご神体なのでしょう。

 鎌倉時代(至徳元年、1384年)に創建ということで、当時、筑波山麓の地域は紀州熊野とのつながりが強く、熊野山信仰が広く伝えられたといいます。

<市内最古の鳥居> 神社の南には参道があり花こう岩でできた鳥居が立っていました。これは江戸時代(寛永年間)に造られたもので、市内では最も古い鳥居だそうです[2]。町屋から見上げる参道の風情は今でもかわらない地域の人々の想いを偲ばせるものがあります。

 熊野神社の東には日向(ひゅうが)廃寺跡があり、平安時代から鎌倉時代にかけてこの地にあったらしいお寺の礎石が復元されています。京都の宇治平等院鳳凰堂に似た東西に回廊を持つ珍しい寺院の跡だという詳しい説明看板があります。

 現在、遺跡の周囲には市営住宅が並んでいますが(というか、昔、町営住宅を造ろうと土地造成をしたときに偶然多数の礎石が発見されたとのこと)、このあたりは江戸時代の役所の跡地だということです。町屋より一段高い高台は当時の官庁街だったのでしょう。北側の山(城山)は花こう岩でできていて(地質図参照)かつて石材を切り出したらしい跡がありました。

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6. 毘沙門天種子板碑(びしゃもんてんしゅしいたび)

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 さらに東に進むと高台はすこし広くなり、これも鎌倉時代に制作されたと伝えられる毘沙門天種子板碑(びしゃもんてんしゅしいたび)(つくば市指定工芸品 [4])が曲がり角に立っています。高さ180センチメートル、幅82センチメートルの雲母片岩に刻まれた微細な彫刻は素人目にも実に見事なもので工芸的にも一見の価値があります。

 となりに宝安寺がありますが、今回はパスして先に進みます。

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7. 北条の市街地から旧北条小学校跡へ

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<つくば道の入り口> 寺院が並ぶ高台からいったん坂を下りて市街地にもどり、古い民家や商店が並ぶ北条の中心市街を走ります。北条は鎌倉時代には城下町として、江戸時代ころからは東西を結ぶ街道の宿場町、筑波山への門前町として栄えました。中心の仲町交差点の角には当時の豪商たちが建てたと刻印のある「ここよりつくば入口」の道標があります。ここを左折し「つくば道」を進みます。

 <近代の高台指定席は?> 坂道を上がると「旧つくば市立北条小学校」の道標があるので右折、100メートルほど進むといまは廃校になった小学校の立派な門があります。開いていれば構内に入ることもできそうですが、門からでも3階建ての校舎と桜が満開の広い校庭が見えました。門の正面には二宮金次郎の像だけが寂しそうに残っていました。

 北条小学校は明治8年(1874年)に創立され、廃校(2018年3月)になるまで実に144年にわたり北条の子供たちを育んできたわけです。「創立当初は校舎がなく私のお寺で寺子屋としてはじまりました」と、門で出会った無量院の奥さんが説明してくれました。

   この高台は鎌倉時代に北条氏が築城した北条城があった跡と言われています。古代・中世の高台は古墳や神社・寺院、城の指定席でしたが、近現代は役所や学校の指定席です。いずれの時代でも地域にとっては最も重要な場所だったわけです。

<山の下流側に残されたふるい段丘> 小学校の校庭は標高30メートル以上あり、地形分類図では海成の上位台地にしています。以前に校庭のすぐ東側の崖で、海浜に棲む生物の痕跡の化石(白斑状生痕化石)を含む砂層を観察したことがありました。すぐ上はローム に覆われていて、河川の浸食は見当たらなかったので、これは海成の段丘だと判断してよいと思われます。

 ここより東方の中台や平沢地区には桜川沿岸でも最も広く上位台地が広がります。小沢の台地と同じように、ここも城山の下流側にあって海成の段丘面がその後の河川の浸食から免れてとり残されたのだと考えられます。

<高位段丘はある?> つくば道をさらに進むと標高40メートルを超す峠あたりにわずかに平坦な地形(あるいは緩やかな斜面)があります。地形分類図では山麓緩斜面としていますが、これは古い時代にできた高位段丘の浸食された地形ではないかと気になります。以前、城山の北西にある漆所(うるしじょ)という地区で、同じく山麓緩斜面とされているほぼ同じ高さの露頭で赤色に風化した海成の砂層を、高位段丘の堆積物と解釈したことがありました。古東京湾よりさらに古い、数十万年前の時代の海成の地層です。

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8. 普門寺

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<時代の変遷を伝える静かな山寺> 神郡の集落の手前、つくば道の右手に普門寺があります。入口に自転車を置いて参道を登ってみましょう。

 普門寺は鎌倉時代末の元享年間(1321~1324年)に、当時この地域で隆盛を誇った小田家の祈願寺として創建されたといわれる寺で、御本尊は平安時代末の作とされる阿弥陀如来だそうです。本堂の奥には16世紀末ころ造られたといわれる見事な石造九重層塔がありました(県指定文化財・工芸品)[4]

 歴史の流れの中で浮沈を繰り返し、江戸時代末頃には田舎寺だったと言われます。明治になると廃仏毀釈の影響で荒廃した時期もあり、さらに平成21年に本堂が全焼、本尊の阿弥陀如来も含めすべてが焼失してしまいました。平成26年に新本堂が再建され、庭園の整備や新墓地の造成、山門・鐘楼堂などの改修が行われました。

 鳥の鳴き声、流れ落ちる滝の音、春の桜や新緑、参道の紫陽花、秋の紅葉と四季折々の風情を感じることができる静寂な山のお寺です。「つくば市観光協力の家」として地域の活性化にも力を注いでいただいており、池のほとりには休憩のベンチも用意されて自由にお茶を飲むことができ、墓地のトイレも利用可能でした。

 <ちょっと気になる赤色砂層> 普門寺入口あたりのつくば道沿いには古い住宅や畑が並んでいます。とある住宅の入り口に小さな露頭があってかなり風化の進んだ赤色砂層がありました。地形的には標高30-40メートルほどの緩やかな台地で山麓緩斜面に区分されています。つまり漆所と同じで、もしかして高位段丘の証拠ではないかと気になります。このあたりの地名は赤町となっていますが、大地の性質と関係があるのかもしれないと想像してしまいます。
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9. 神郡(かんごおり)の街並み

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 <タイムスリップに入ったような歴史の街> つくば道をさらにすすみ坂道を一段下ると神郡(かんごおり)地区上町の集落に入ります。ここから見るとつくば道の真正面に筑波山がそびえます。道の両側には立派な門構えや白壁・石倉がある古い家が並び、まるでタイムスリップに入ったような古道の面影が味わえます。

 ここはかつての田井村の中心で、最近まで商店街もあったのでしょうが、今ではほとんど閉店し和菓子屋さんだけが残っていました。私はここに来るたびにお店の名物「揚げまんじゅう」を買うことにしていますが、このような街並みが保存されていくことを願いたいです。

 

 神郡という地名も独特ですが、姓の同じ家が多く並ぶのも気になります。和菓子屋さんと同じ櫻井姓が特に目立ちますが、この姓は全国的に見ても茨城県や千葉県などで多く、県内ではつくば市が一番多いそうです。地名や名字の歴史も調べると面白いのかもしれません。

<筑波山イチオシの絶景ポイント> 以前は一つ目の点滅信号があった、角に石倉のある十字路を右折し東に進みます。このあたりから見える、逆川(さかさがわ)を挟んで眼前に広がる筑波山南麓のパノラマはまるで絵にかいたような絶景です。いつだったか道路わきで三脚を構えて写真を撮っている人に出会いましたが、聞くと毎週のように栃木県からきて筑波山の四季の姿を何年も定点撮影していると言っていました。

<美しい筑波山のひみつ> 筑波山がなぜこれほど美しいのでしょうか。海抜20-30mの水田から、何もさえぎる山もなく直接877メートルの尖った山頂と広々とした緩やかな山すそが一望できるからでしょうか。つまり13-12万年前に古東京湾が筑波山のすぐ近くまで広がっていたという、関東平野の中でもここにしかない特徴によるものであることは間違いないでしょう。

<山麓斜面の地形を見分けよう> あらためて筑波山の山麓斜面をよく見ると、ホテルがある標高500メートルあたりを境に、その上と下で山の地形が明瞭に違うことが分かります。上側には谷の切れ込みがある急な斜面が見えますが、下側はのっぺりとした傾斜の緩やかな斜面が広がります。段採図ではその違いがさらにはっきり分かります。

 下半部の斜面は上半部より浸食の程度が少ないことから、より新しい時代にできた地形だと思われます。地質時代のある時代に、筑波山上部の岩山が崩壊し土石流となって崩れ落ち、それらが下流に堆積したのでしょう。この部分を地質図では「山麓斜面堆積物」とし、文献によればその堆積時期は古東京湾が広がった時期よりもあとと解釈されています[8]

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10.  蚕影(こかげ)神社と金色姫伝説

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<蚕影神社> さらに東へ進み蚕影神社(通称「蚕影山神社」)へ向かいます。車も少なく水田や畑の中の自転車走行は実に気持ちが良いです。

 館(たて)の集落を過ぎ道路の行き止まりまで進むと石灯篭が二つ並ぶ石段の参道があります。入口にあるかつての旅篭「春喜屋」に自転車を置かせてもらい石段を登ります。石段の石材は下半部が変成岩で、上半部が花こう岩でできていました。どちらも近くで産出する石材を使っているのでしょう。境内は周辺の露頭を見る限り風化した(マサ化した)花こう岩でできていました。

 神社の林はよく手入れされているように見えますが、いつだったか、鹿島から来たという女性が、一人で黙々と境内を清掃をされていたのには頭が下がりました。

 およそ200段ほどある階段を登り二つの鳥居をくぐるとようやく拝殿が見え、その奥に本殿がありました。本殿は江戸時代初期、拝殿は大正時代の建築だそうです。いまでも年3回例大祭が開かれているそうで、そのうち3月には養蚕祭り、10月の秋の大祭では巫女の舞なども復活していると聞きました。

<養蚕発祥の地> 神郡周辺の館地区や向かいの立野地区は養蚕発祥の地と言い伝えられ、明治から昭和初期には全国各地からこの神社に参詣者が訪れてにぎわったそうでっす。奉納された古い絵馬や繭玉が本殿や右隣の絵馬堂に飾られていました。

<金色姫伝説> その絵馬の中に「金色姫(こんじきひめ)伝説」の絵馬がありました。「天竺から桑の函舟で流されてきた金色姫がこの地の海岸にたどり着き、親切な権太夫(ごんだゆう)夫妻に助けられたが、すっかりやつれた姫はまもなく病で亡くなった。死後、姫は棺の中で蚕となり養蚕を伝え恩返しをした」という伝説です。実は同じような伝説が北茨城や鹿島の神社にもあり、いずれも近くに海岸がありそこが養蚕発祥の地と言い伝えられているそうで、宮本宣一著「筑波歴史散歩」[6]に詳しくいきさつが紹介されています。本当に伝説のように、その昔ここは海岸の近くにあったのでしょうか。

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11. ”豊かな海”と美しい棚田

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<”豊かな海”はどこ?> このあたりの地名は館(たて)といいますが昔は豊浦と言われた記録もあります[6]。いまは近くに介護老人保健施設「豊浦」があります。「豊浦」?? もしかしてここが”豊かな海”だったのでしょうか。

 蚕影山神社をあとにもと来た道を少し戻ると、来るときは通り過ぎた館児童館があります。よく見ると児童館前の桜の木の下に石灯篭(石碑?)が一つぽつんと立っていました。地元の人に聞くと、これが「権太夫の碑」だということです(看板などはありません)。ここが伝説の海岸だったということでしょうか??

 館の集落は周りの田んぼより一段高いこじんまりとまとまった台地の上にあり、むかし陣屋があった場所らしいです。地形分類図を見ると、神郡地区から館にかけて標高35メートルほどの台地が広がり、それは上位段丘面に相当するとされています。すなわちおよそ13~12万年前の海の地層がこの台地面をつくったと解釈されているわけです。地質図では少し解釈が異なり、この場所の地形面は河川成の中位段丘面(常総面)とされていますが、近くに海の地層(木下層)の分布も示されています。

 いずれの解釈でも、13~12万年前にこのあたりに海(古東京湾)があったことが示されています。ただしそれは、伝説の海よりはるか太古の海になります。昔の人たちが近くの地層から貝やカキの化石などを見つけて、それがいつしかこの地の伝説の土台になったのかもしれません。

<美しい桃源郷> 館児童館の裏の坂道を斜めに降り途中から東に進むと逆川(さかさがわ)の支流「細草川」に差し掛かります。春は梅、桃、桜、そして菜の花が美しく咲き、夏になるとホタルが舞う自然豊かな里山が続きます。地元NPO法人のグループなどが「すそみの田んぼ」と周辺谷津田を保護する活動をしているようですが、緩やかな棚田の並ぶ美しい山里は大切に保存したいものです。

<「古東京湾」の入り江> 細草川の奥の棚田から西の桜川低地を見ると、ここが「古東京湾」の時代には入り江であったイメージがつかめます。人々がまだ日本列島に住みつくよりはるか昔の時代の、つくばの景色を想像してみましょう。

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12. 六所皇大神宮霊跡(ろくしょこうたいじんぐうれいあと)・六所の滝

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 逆川を横断し、新しくできた六所大仏のある十字路を北に曲って坂道を登っていくと六所皇大神宮第一駐車場があります。このあたりから坂が急になるので自転車を押して坂を上ると六所大皇宮の石段があります。石段の上に厳かな雰囲気の六所皇大神宮霊跡が現れました。杉の大木の中に幽玄な静寂が漂っている気がします。

 六所にあった神社は明治43年に廃社され蚕影山神社に合祀されましたが、それまでは筑波山神社がおこなう春と秋の御座所替祭(ござしょかえさい)の里宮の役割を果たしたそうです。かつては本殿が2棟あったそうですが[2]、今は石垣だけが面影を残しています。

<六所の滝> 境内の右手に「六所の滝」へ至る案内看板があります。林の中の小道を「しらたきみち」と間違えないように300メートルほど進むと、花こう岩やはんれい岩の巨礫がごろごろ転がる谷川に近づきます。巨礫の隙間に堆積する砂は花こう岩が風化するとできる細かな雲母の破片がたくさん含まれ、きらきら光っています。さらに進むと高さ数メートルある「六所の滝」がありました。この滝は花こう岩の露頭と思われます。

 最近、この沢の上流で採取された花こう岩から新しい方法で年代を測定した研究成果がでました[9]。それによると花こう岩が地下深くでマグマから固結した年代は今からおよそ8千万年前ということで従来考えられていた年代より大分古く、山頂のはんれい岩と同じくらいの時代になるということで注目されています。

<山麓斜面の土地利用> 六所皇大神宮霊所跡をあとに緩やかな下り斜面を下ると、このあたりが対岸から見た「山麓斜面堆積物」の分布する場所だとわかります。周囲には大きな岩石が散乱し、畑や住宅の塀に石積みされていることに気が付きます。これらの石はほとんどが黒っぽいので、筑波山上部から転がってきたはんれい岩だとわかります。斜面には石垣でつくった棚田もありますが、花こう岩の風化でできた砂層でおおわれた畑もあり、水はけの良い畑ではブドウなどが栽培されています。

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13. 金堀塚古墳・十三塚土塁

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  逆川に並行する東西の直線道路を西へ進むと、田んぼの中に金堀塚古墳がありました。この古墳は6世紀後半に造られた、もともとは径12メートルほどの円墳だったようですが、現在は大分変形しています。南側に小さな横穴式石室の開口部があり、直刀や勾玉、金環が発掘されたと言われています[3]

<ナゾに満ちた十三塚の土塁> 古墳の上に登って南を見ると道路を挟んで土塁のような高まりがまっすぐ南北に伸びているのが見えます。十三塚の土塁です。十三塚と呼ばれるのは、土塁の上に江戸時代にできた十三塚があるためだそうです[3]

 土塁は長さ約200メートル、幅が16メートル、高さ4-5メートルほどある大規模なものですが、何のために造られたのか謎でいろいろな説があります。上流に溜池をつくるための堰、筑波山への参道、牧原の囲い、防衛のためなど。このうち溜池説が最も有力のようですがどうでしょうか[3]

<もともとあった自然の高まりを利用した?> 地形分類図ではこの高まりは上位台地とされています。もちろん土塁そのものは人工物ですが、南側の館の台地(上位台地)からのびる高まりの延長部にあることから、もとからあった自然の高まりが土台になっているのかもしれません。そのような目で見ると上町から延びるつくば道や金堀塚古墳、次に訪れる諏訪山古墳も、もともとあった自然の高まりの上に築かれたと考えるのが妥当のように思えます。


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14. 諏訪山古墳

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 さらに一本道を西に向かって進み、再びつくば道に出会ったら右折してやや高くなった畑を進むと、左手に諏訪山古墳があります。途中案内看板や古墳の説明看板なども全くなく、ごく普通に畑の中にあるので見逃してしまうかもしれません。 

           

 臼井地区赤塚のあたりには前方後円墳や円墳などの古墳群がいくつかあるようで、この古墳はそのうちの一つだと思われますす。径8メートル、高さ2メートルほどの円墳で、6世紀後半頃の築造だと考えられているようです[3]

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15. 燧ヶ池(ひうちがいけ)

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 諏訪山古墳の北西に燧ヶ池(ひうちがいけ)がありますので寄ってみましょう。観光の名所と言われるわりに、ここも例によって案内看板がなく、車では近づきにくいですが自転車なら簡単に立ち寄れます。

 四季を通じて、秀峰筑波山を背景にした里山の景色を楽しめるところで、土手に咲く春の桜や彼岸花の群生はとくに人気の写真スポットだそうです。土手の端にエノキの古木がありました。かつては大木で地域のシンボルだったそうですが、十年ほど前に幹から折れてしまったらしく、いまでは幹の一部だけが残っています。

 燧ヶ池は山麓を流れ下る男女川の水を利用した農業用ため池ですが、いつの時代に造られたものかよく分かりません。地形分類図を見ると中位段丘に挟まれた低地に男女川の水を堰き止めたため池で、下流に広がる神郡の水田にとっては重要な水利施設であることが分かります。

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16. 飯名神社

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 <筑波山神社の里宮> 次に筑波山神社の里宮である山麓の飯名(いいな)神社に登ってみます。もし体力と時間が心配なときはパスして、燧ヶ池からつくばりんりんロードに直行するのも良いでしょう。

 燧ヶ池から畑の中の道を北上すると沼田へ抜ける旧街道にでます。街道に出たら右折、東へ100メートルほど進むと「飯名神社入口」の案内看板があります。

 飯名神社はここから40メートルほど上にありますがかなりの登り坂なので、ここは自転車を降りて歩いて進みます。古い住宅の間を登っていくと林の中に飯名神社の鳥居が見えてきました。

<巨大な岩がご神体でしょうか> 飯名神社は大変歴史のある神社です。拝殿に掲げられている「飯名神社由来記」によれば、直接の創建記録ではないけれど常陸国風土記の「信田(しだ)郡の記」のなかで、里に飯名の社があること、筑波の岳(やま)にある飯名の神の別属(わかれ)であるという記録があるとのことです。

 近所の方に伺うと、地元では「稲野の弁天さま」とよばれ旧正月の例大祭には縁日が立つほど地域の人々に崇められているそうです。

 本殿の後ろには巨大な岩があり、上に祠がおかれています。この岩がご神体でしょうか。また、鳥居の左手にも4ー5メートルの巨石に生えた大木があります。どれも岩ははんれい岩ですが地質図によれば、この場所は「山麓斜面堆積物」の上になるので、巨岩は露頭ではないと思われます。いわば筑波山頂の岩が移動してきたといえます。

 坂道の帰りは楽ですが、スピードが出ないよう十分に気をつけて戻ります。街道にでたら沼田の方へ進みます。

 

 ( 寄り道:飯名神社よりさらに50メートル上った山麓斜面に月水石(がっすいせき)神社があります。同じくはんれい岩の巨岩の上に社があり、謂れでは日本書紀でも語られたイワナガヒメを祭神とする神社だということです。男女川沿いで岩がゴロゴロ並ぶ山の斜面にあり、岩や大地に対する信仰や畏敬の気持ちが独特な雰囲気を醸し出しているのかもしれません。)

    

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17.  沼田八幡塚古墳

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<市内最大規模の前方後円墳> 本コース最後の見どころです。沼田の集落を抜け、りんりんロードも横切って馬場地区に進みます。250メートルほど走ると右手の住宅の陰に大きな古墳が現れます。これが桜川流域では最大規模の前方後円墳で、昭和12年に茨城県指定史跡に指定された沼田八幡塚古墳です。

 前方部は長さ32メートル、幅35メートル、後円部は径58メートルで3段になっているらしく、頂部に八幡神社が祀られています。東側にある八幡池はいまは防火用水に間違われそうな感じですが、元は古墳周溝の一部と考えられているものらしく、実はここから見事な人物埴輪頭部が発掘されました(県指定文化財)[4]。実物は小田の歴史ひろば案内所に陳列されていました。子供の頭くらいの大きさで少女像だということです。埴輪の様式から古墳が築造されたのは古墳時代後期(6世紀前葉頃)と考えられているそうです[3,4]

 古墳が造られたのは筑波山の南山麓に堆積した「山麓斜面堆積物」の緩やかな斜面上で、桜川沿岸の下位台地よりは少し高い標高25メートルくらいの高台です(地質図地形分類図参照)。古くから人々が住んだ里山で、眼前の筑波山を背景にした絶好の立地だったのだと思われます。

18. <終点>筑波山口駅

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 終着の筑波山口駅は住宅を抜けるとすぐでした。お疲れさまでした。

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あとがき

 「幻の豊かな海」を探し求めた矢作幸雄氏は、はじめ桜川や小貝川周辺に「島」とか「沖」とつく地名がたくさんあることに注目しその分布を調べたようです。そのうちに「豊浦」の地名が金色姫伝説の海岸につながっていること、鹿島の神栖にある蚕霊神社にも同じ豊浦浜と金色姫伝説があることに気が付き、きっと縄文海進ころには神郡のあたりが「豊かな海」だったのだろうと想像していました。

 たしかに、今から7000年ほど前の縄文時代に、海が現在の標高4メートルほどの内陸にまで侵入したのですが、標高40メートルある豊浦までは到達していません。一方、13~12万年前なら、このあたりは「古東京湾」でしたし、実際に近くから貝やカキの化石が産出する場所があることから、太古の時代には近くまで海があったと信じたのだと思われます。そして人々は幻の海の物語を創作したのかもしれません。

 このコースでは自転車で大地の起伏を体感しながら、古墳や寺院・神社の立地をとおして地形と人々の暮らしの係わりを探索しました。自然のなりたちとひとびとの文化創造の歴史を楽しんでいただけたでしょうか。

 

近隣のおすすめグルメ店、おみやげ売り場

 帰路、国道125号交差点角(ウエルシア向い)に「筑波農産物直売所」があります

。北条米や野菜・果物など地域の農産物を買うことができる。お土産にどうぞ。

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【参考資料】

 本文中の [ ] 内の数字と対応しています。

[1] 矢作幸雄 (2001) 「古代筑波の謎」, 学生社

[2] 谷 賢二「今昔マップ on the web」

      https://ktgis.net/kjmapw/  (2023.01.25参照)

[3] 筑波町町史編纂専門委員会編(1989)筑波町史(上巻)

[4] つくば市教育委員会(2009) つくば市の文化財(2009年版)、つくば市

[5] 筑波山麓フットパス ~神郡~六所~筑波

 https://www.city.tsukuba.lg.jp/material/files/group/110/kangori_202208.pdf

 (2023.01.25参照)

[6]  宮本亘一 (2014) 筑波歴史散歩, 日経事業出版センター

[7]  NPO法人つくば環境フォーラム

[8] 磯部一洋 (1990) 茨城県筑波山・加波山周辺の緩斜面堆積物の形成について,地質調 

      査所月報,第49巻,p.357-371

[9] Koike, W and Y. Tsutsumi (2018)  Zircon U-Pb dating of plutonic rocks at the Tsukuba area, central Japan. Bull.  Natl. Mus. Nat. Sci. Ser. C, 44, 1-11

 

 

 

【ジオコラム】

地質図

 出典:宮崎一博・笹田政克・吉岡敏和(1996)真壁地域の地質.地域地質研究報告

     ( 5 万分の1 地質図幅),地質調査所,103p.

        https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php#16,36.17854,140.08441  (2023.04.05参照)

        下図は本コース周辺の部分図で、上にコース・ルートを加筆して作成

【地質図の記号説明】

 Gb:はんれい岩、Ts2・Ts3・Ts5:筑波花こう岩、mm:筑波変成岩、Ki:木下層(古東京湾の堆積物)、 Jo・tm:常総層(中位段丘堆積物)、tl:低位段丘堆積物、

sh・sl:山麓斜面堆積物

花こう岩・はんれい岩:地下深い場所(地下数キロから10キロメートル)で高温のマグマがゆっくり冷えて固まった火成岩の一種。含まれる鉱物の違いで石英などケイ酸塩鉱物の多い白っぽい花こう岩とケイ酸塩鉱物の少ない黒っぽいはんれい岩とに分類されます。

変成岩:地下深くで堆積岩(砂岩・泥岩・石灰岩)などがマグマの熱(数百°C)で新しい鉱物ができるなど変質した岩石。雲母片岩などがある。

更新世(こうしんせい):地質時代の呼び名で258万年前から1万2千年前までの時代の呼び方です。人類が繁栄した時代で地球規模で気候が寒冷になり氷河が発達した時期(氷期)や温暖な時期(間氷期)がくりかえされました。更新世の後、現在までの時代を完新世(かんしんせい)といい、比較的温暖な気候の時代です。

ローム:昔の富士山や赤城山など近隣の火山が噴火した時の火山灰が降り積もった地層で、永い間に風化し粘土質になった土壌の一種です。いわゆる赤土(あかつち)です。

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段採図:標高10m-50mの間を2.5mごとに色分け。(地理院地図より作成)

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上位台地・中位段丘・下位段丘:  このコース周辺には平坦な台地がよく見られます。これらは地球規模の気候変動による氷河性海面変動と地域固有な地殻変動との相対的な組み合わせで生じるによる海面の低下によって、海や河川の浸食・堆積作用でできた平坦な地形です。段丘面は標高の違いによって上位段丘(このあたぁりでは標高30mくらい、地形分類図ではUt)、中位段丘(同じく20数mくらい、地形分類図ではMt)、下位段丘(同じく20数m以下、地形分類図ではLt)に区分されています [4]

 上位段丘面は今から13-12万年前の「古東京湾」と呼ばれる海の底に堆積した海成の地層を土台とする段丘による地形面で、中位段丘面は約10万年前に関東平野を流れる河川の底に堆積した河川成の地層を土台とする段丘による地形面です。

高位段丘: 段丘の区分は高さの順に、高位段丘(丘陵・山麓緩斜面)・上位段丘・中位段丘・下位段丘・低位段丘に区分されます。

丘陵:山地に対する平野の地形は高さの違いで丘陵・台地・低地に区分され、山地より低く台地より高いおよそ100mより低い起伏を丘陵とよびます。比較的なだらかな台地状の丘陵は山麓緩斜面とよばれることがあります。(浸食の進んだ高位段丘であることもあります。)

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地形分類図:5万分の1都道府県土地分類基本調査(真壁)地形分類図 「真壁」及び「土浦」より作成

【地形分類図の記号説明】

 M:山地、Hp:丘陵地、Ut:上位台地、M1・Mt2・:中位段丘、Lt:下位段丘、

 Ps1・Ps2・Ps3・Ps4:山麓緩斜面、S:崖および斜面

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